障害学会HOME

障害学会第13回大会(2016年度)報告要旨


ここをクリックするとひらがなのルビがつきます。
ルビは自動的にふられるため、人名等に一部変換ミスが生じることがあります。あらかじめご了承ください。


野崎 泰伸 (のざき やすのぶ) 佛教大学

■報告題目

知的障害者は倫理学の対象となり得るか

■報告キーワード

知的障害者、倫理学、知的能力

■報告要旨

 倫理学とは道徳に関する哲学である。道徳について考えるうえでは、道徳的配慮を行う道徳的主体と、道徳的配慮を受ける道徳的対象とが存在しなければならない。道徳が行為や世のなかに存在するものの正邪や善悪の規範である以上、誰を対象とした規範であるか、つまり道徳的配慮の対象については、考えられなければならない。
 なぜ道徳的主体ではなく、道徳的対象について考えるのか。道徳的主体はほぼ自明であるからである。道徳的主体になり得るのは、道徳について考えることのできる人間に限られるであろう。将来的に、人工知能がここに加わるかもしれないが、現在のところその域には達していないと考えるのが妥当であろう。
 それでは、道徳的配慮を受けるに値する対象とは誰であり、何であるのか。これについて、倫理学者はいくつかの回答を与えてきた。それは、以下のようなものである。
 ・人間
 ・自己認識や理性がある、自己決定できるという性質をもつ存在
 ・道徳的主体と道徳的対象とは区別ができない
 ・感覚があるという性質をもつ存在
 ・生態系、生命圏
 本論で考察する、知的障害者は果たして、道徳的対象になり得るであろうか。私は、これまでの研究において、そうした問いが問われる現実こそが、知的障害者を道徳的対象から排除していることの証左であると述べてきた(野崎2011、野崎2015)。それはその通りであると考えているが、本論においてはこの問いに正面から答えてみたい。すなわち、そうした問いを考えることを通して、知的障害者を道徳的対象に入れた倫理学理論を構築する礎としたいのである。それはまた、能力を理由にして道徳的対象から排除する、つまり能力をその境界線にしてよいとする倫理学を根本的に批判するものになるだろう。本論では、藤井可の「人間中心主義的生命中心主義」(藤井2011)を踏まえたうえで、倫理学が知的障害者をどのように組み込んでいくべきかに関する試論を展開する。
 倫理学が「共に豊かに生きていくための原理を模索する学問」であるならば、どのような理由であっても「共に生きる」仲間を限定すべきではないはずだ。倫理を考えるうえで正当な境界が道徳的対象のあいだに引かれてよいという構えは、それじたいが倫理的な構とは言えないのではないか。
 なお、本報告は、直接人物を対象とした研究ではないため、倫理的配慮は不要であると考える。

藤井可 2011 「生命倫理学理論としての生命中心主義の再構築」,熊本大学大学院社会文化科学研究科2010年度学位論文
野崎泰伸 2011 『生を肯定する倫理へ――障害学の視点から』,白澤社
野崎泰伸 2015 『「共倒れ」社会を超えて――生の無条件の肯定へ!』,筑摩書房



>TOP


障害学会第13回大会(2016年度)