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障害学会第11回大会(2014年度)発表要旨
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長谷川 唯 (はせがわ ゆい) 日本学術振興会/京都府立大学
■報告題目
スティグマを負わない健常者の障害学――合理化される主体の条件
■報告キーワード
障害 / 健常 / 差別
■報告要旨
この社会は、障害を抱えながら生きていくにはとても生きにくい。障害を抱えた人たちの生活では、差別が絶えず付きまとう。障害を理由とした差別は禁止されているにもかかわらず、その不便さを本人の努力や工夫で何とか減らそうとすることが当たり前に求められる仕組みが用意されている。言い換えれば、社会が差別を許容している現実がそこにある。
障害学は、そうした社会にある差別を含む障害――ディスアビリティについて分析し研究を進めてきた。そこでは障害者視角でディスアビリティについて考え、健常者を規定とした社会を問い直してきた。そういう意味では、ディスアビリティは解消が必要な問題といえる。ここで、誰にとって解消が必要なのかという問題に直面する。ディスアビリティを健常者と障害者という二項対立を用いて考えれば、両者の間には権力関係が存在し、それはこの世に生を受けたそのときから社会によってすでに規定されている。つまり健常者と障害者は生まれながらにして非対称な存在なのである。現実社会においても、両者が対等となるためにはあらゆることが欠落している。そのような非対称な社会関係の前では、誰にとっての解消なのか、ディスアビリティの解消の必要性を主張する立場によってはその視角の担保が問題となる。とくに、障害を持たない人――健常者の場合には「当事者視点」をどのように裏付けるかが、その主張の根拠として重要になってくる。ここでいう健常者とは誰か。ゴッフマンでいうところの「同類」と「事情通」に当てはまらない人のことを指す。
健常者は障害学の主体になりえるのか。倉本が指し示すように、自分の立ち位置に自覚的であることが障害学の主体たりうるのならば、健常者は「抑圧的な存在」であることを意識することからはじめて、健常者と障害者が対等ではない社会に対して障害者の視点から主張することができることになる(倉本 2002)。このことを杉野は、障害学における健常者の立ち位置を「障害をめぐる社会的抑圧状況に対して自覚的か否か」という要件として理解し、「抑圧に無自覚な者/自覚する者」として、その主体を整理している(杉野2007)。これまでの議論は、どうやったら健常者が障害学の主体となりえるのか、その条件を作り出すための議論であった。だが、実際には「同類」に分類される同じスティグマを持つ人たちに加わることで、障害学の主体としての立場を獲得する傾向にある。そこからは、障害者としての立場を突き出していく過程が見えてくる。それは、健常者がディスアビリティに取り組んでいく中で感じる葛藤や使命感が次第に具体的な主張へと変化し、自らスティグマを見出そうとしていくことである。
ここで重要なのは、「同類」に分類される人たちはスティグマを負っているのに対して、障害学の主体としての立場を獲得しようとする健常者は、実際にはスティグマを負わないということである。そこでの健常者は、障害学の主体となるために条件を作り出して立場を合理化しようとしているにすぎないのではないか。たとえ、障害学の主体について「健常者/障害者」ではなく「抑圧に無自覚な者/自覚する者」という二項対立を用いて整理したとしても、その前提が障害学の主体としての健常者の条件作りであれば、非対称な社会関係からの脱却、障害による不便さや不自由さを埋めることは難しい。
結局は、健常者が障害学の主体になりえるために、それぞれに合理化しているだけで一般化した条件など存在していない。むしろ、こうしたことこそが健常者中心主義として批判を受けるべきことなのである。
Goffman, Irving,1963,Stigma: Notes on the Management of Spoiled Identity,Prentice-Hall(=1970,石黒毅訳,『スティグマの社会学――烙印を押されたアイデンティティ』せりか書房.)293p. 2775 ※/千葉社1448共通
=198010 『スティグマの社会学――烙印を押されたアイデンティティ』,石黒毅訳,せりか書房,293p.
=2001 改訳版,せりか書房,310p.
倉本智明,2002,『障害学、現在とこれから』大阪人権博物館編.
杉野昭博,2007,『障害学――理論形成と射程』東京大学出版会
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