>HOME シンポジウム「障害学とソーシャルワーク」 障害学会第5回大会 於:熊本学園大学 ◆趣旨 冒頭で本シンポジウムの趣旨を説明させていただきます。のっけからやや固い話になりますが、若干の定義付けめいたことを・・・。本シンポジウムのタイトルとなっている「ソーシャルワーク」、これはその定義から言ってミクロからマクロまで幅のある介入をする仕事とされています。国際ソーシャルワーカー協会と国際ソーシャルワーク学校連盟によるソーシャルワーク専門職の定義づけは次の通りです。「ソーシャルワーク専門職は、人間の福利(ウエルビーイング)の増進を目指して、社会の変革を進め、人間関係における問題解決を図り、人々のエンパワメントと解放を促していく。ソーシャルワークは、人間の行動と社会システムに関する理論を利用して、人々がその環境と相互に影響しあう接点に介入する。人権と社会正義は、ソーシャルワークのよりどころとする基盤である。」1)このようにソーシャルワークの専門職は個人、システムとしての制度、その両者の連結、さらにポリシーとしての政策にそれぞれ介入をするという認識が広く認められています。 しかし、現実の仕事の中で、例えば厚生労働省で法律の改正に携わりながら「ソーシャルワークの仕事をしている」と認識する人はどれくらいいるのでしょうか。また、複雑化する種々の課題や制度の谷間にいると言われるような人に対してソーシャルワーカーがどれだけ有効に動きえるか、特に大小含めた資源の創設にどれだけかかわっているのか、と言うことに関して、常に批判的な目が向けられてきました。特に、1990年代になって「言語が現実を構成する」という社会構成主義の考え方がソーシャルワークの世界にも影響を与えるようになり、客観性や科学性の名の下にサービスを必要とする人に対して専門職の価値観を押し付け、ひいては権力関係に巻き込んでいるのではないかといった批判もなされるようになっています。2)障害学の領域でも、例えば「障害受容」という言葉に表されるように、ソーシャルワークは「障害」を環境サイドの不備がもたらす抑圧の経験としてではなく、個人が克服すべき「悲劇」ととらえる個人モデルを採用しているのだという批判が展開されます。3) つまり、ソーシャルワークを標榜する側、私を含んで教える人々が、その仕事の中に社会運動も含む多次元にわたる機能を認識しているにもかかわらず、障害学の分野においては、ソーシャルワークを初めとする支援の仕事は障害の個人モデルに基づく個人変容を強いてきた部分が大きいという批判が展開されているわけです。実際、その教科書的定義とは違って、現在のように財政的な見地から社会福祉制度そのものの拡大に強いブレーキがかかっている時に、現場でソーシャルワーカーを自認する人々の仕事はどこまで有効でありえるかということに対して内外から懸念の声があることも確かです。 本シンポジウムでは、今までこの「ソーシャルワーク」を正面から取り上げて論じる機会が少なかったことにかんがみて、繰り返し訪れるソーシャルワーク受難時代を味わっているとも思える今日、あえてこのテーマを選び、障害学における支援の仕事の位置づけと今後を確認してみたいと思います。冒頭で多次元にわたる仕事として定義付けたのですが、本シンポジウムの中ではどちらかというと障害当事者とともに歩み活動する直接的な支援活動としてのソーシャルワークをメインに考え、その中には場合によって身体介護や見守り等いわゆる「ケアの仕事」も含むものとして広く論じたいと思います。つまり、皆さんの中にある「支援の仕事」のイメージを広く投入して考え議論できる場にしたいということです。 さて、これから議論に入るにあたりもうひとつ。支援に関して論じるこのシンポジウムでは、ことさらそれを論じようとする人がどこの誰で、またどのような立場からものを言っているのかと言うこと(アイデンティティーとか立ち位置のようなもの)を明確にして始めることが重要だと思っています。なぜなら、第一にこうした議論において自分だけ安全地帯にいて評論的に論じることは不可能であると認識しているからであり、また第二に、この大会に参加されている方々の中にも多様な立場があることを勘案したとき、支援の仕事(ソーシャルワーク)について、すべての人が主体的、建設的にその今後を考えることが出来る場にしたいからです。 これからお話いただくお三方からもまずはそのような話があると思いますので、まずは私から・・・。今回コーディネートを務める小山は、大学の社会福祉学科を卒業後、肢体不自由児の療育を専門とする小児病院で2年強児童指導員をしました。大学では障害の領域中心のゼミに所属しつつも雇用政策の動向などということを卒論で取り上げ、どちらかというとマクロな制度面に興味がありましたので、学齢前の児童への直接的支援や遊びの保障などの仕事にはやや戸惑ったところがあります。その後、アメリカのミシガン州にある大学院でリハビリテーションカウンセリングを専攻し、アメリカのあくまで自助重視の空気やプラグマティックな雰囲気に驚きつつ、ここで対個人支援の理論や技法に傾いていきました。それは同時に就労を伴わない生活もいわゆる「自立生活」の範疇に入ることを法律(リハビリテーション法)が認めるようになったことに職業リハビリテーションの世界が沸いている時期でもありました。4)帰国後、知的障害のある成人の入所型施設の支援員を1年務めた後、国立の総合リハビリテーションセンターにてソーシャルワーカーとして約10年働き、13年前に研究教育の場に移りました。私が直接的な支援の仕事に携わった足掛け13年の間には、制度的な変化に影響される形でサービスを利用する人々に対する感覚も変化して行ったことを自覚しています。いずれにしても現場に働く人間として、より良い支援のあり方とか、少なくとも「間違いのない」実践を模索するのだといったことを無邪気に考えていました。利用者-援助者関係のあり方と言うことについては、もとよりもやもやとした課題意識があって、強弱関係を生み出す構造的要因について授業では強調をしてきました。私自身の立ち位置は今も半分「ソーシャルワーカー」なので、障害学と出会ってからは制度内で限界を自覚しつつ働く、ある種「がっかりした」専門職を自認し、それでもその限界をどのように広げるかを考えられる仕事人を育てることや、また逆説的な言い方になりますが、「専門職ではないこと」の中にソーシャルワーク機能をむしろ散りばめていくというような、ある意味で「名を捨てて体を取る」あり方も模索しています。 本日の進行について簡単にご説明します。まず第1ラウンドとしてお三方より自由にソーシャルワークの現状に関する課題意識を表明していただきます。(15分×3)そして、第2ラウンドとして今後に向けての提言をいただきます。(10分×3)まず、三島さんからはソーシャルワーク成り立ちの経緯と、社会福祉領域における「ポストモダニズム」を反省的学問理論と言い換えたその心と現在の専門家の立ち位置について。次に松岡さんからは、あえてソーシャルワークの固有性に固執せざるを得ないことを認識した上での現状と、特に社会環境に焦点を当てて働きかける機能の今後について。最後に松田さんからは「裏のソーシャルワーク」としてのセルフヘルプ活動をめぐり、その位置づけとそれが「ソーシャルワーク」全体との間で取り結ぶ政治的な力動について。このような内容でそれぞれお話いただくことになると思います。お三方とも大学で研究教育を生業としておられますが、そこに行きついた経緯も研究教育職についてからの歩みもそれぞれです。いずれにしても、いわゆる「支援する側」が不可視化された議論にならないことは確かでしょう。2ラウンドが終わった後、これらを踏まえてフロアからコメントや質問をいただくつもりです。(25分) おそらく様々な次元の意見や批判が錯綜することになるとは思いますが、次元ごとに考えるべきことやるべきことを分けて今後について建設的に考えるスタンス5)を大事にしたいと思いますので積極的なご参加をお願い申し上げます。 1) Definition of social Workers, adopted separately by IFSW and IASSW at
their respective General Meeting in Montreal, Canada in July 2000. 2) 北川清一「支援活動の新たな展開④-クリティカル理論-」、北川清一/久保美紀編著『社会福祉の支援活動 ミネルヴァ書房、2008、p205~p221
3) 大統領による何回かの拒否権発動後、改正リハビリテーション法に自立生活に関する章が付加されたのが1978年で、小山が留学したのが1982年~1984年である。 4) Michel Oliver & Bob Sapey Social Work with Disabled People
third edition, Palgrave, 2006, p22~p23, p46. 5) a) 諸サービスを利用する中で、ないしは利用すべきサービスの決定的不足を感じる中で現状のしくみに疑問を抱き、社会運動に取り組む障害当事者の視点、b) いわゆる法制度の中に組み込まれて日々働くソーシャルワーカーとして、その仕事を今日明日レベルのスパンで少しでも良くしようとする観点、c) 制度的な限界や矛盾を認識しつつ、中長期的スパンで仕組みを変えることを視野に入れた例えば研究者の観点、d) ソーシャルワーカーや社会福祉職と名乗らずともその働きや動きの中にソーシャルワーク機能を活用しつつ現状を少しでも良くしようとする観点、e) 今後の支援を担う人(障害当事者がその任を担うべきことを含め)に対して、目指すべきあり方について伝えていく観点など、立ち位置ごとに言えること、やれることを考えるということ。
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