>HOME 学会シンポジウム1「スティグマの障害学-水俣病、ハンセン病と障害学」 ◆【報告要旨】 E・ゴッフマンは、次のように述べている。「スティグマという言葉は、人の名誉をひどく失わせるような属性をいい表わすために用いられるが、本当に必要なのは明らかに、属性ではなくて関係を表現する言葉なのだ、ということである」(石黒毅訳、『スティグマの社会学』せりか書房、12頁)。ある人の身体的特徴が、そのまま「スティグマ」となるわけではない。その特徴に対して、誰かがその人の名誉を失わせようという意図をもって接するときに初めて、スティグマは誕生するのであり、そこでまず問われるべきなのは、その特徴を有する当の人びとと、その人びとを取り囲む人びととの関係性である。身体的特徴としての「インペアメント」と、それを理由に社会がおこなうさまざまな「ディスアビリティ(可能性剥奪)」を区別しながら、障害学が問うてきたのも、まさに関係性の問題だった。水俣病というスティグマと、ハンセン病というスティグマ。日本という特異な社会的文脈の中で、これらの苛酷な経験をくぐらざるをえなかった人びとから、障害学が学ぶべきことは膨大である。 水俣病に深くかかわってこられた原田正純さんの著作を読んで、私の頭にいつも思い浮かぶのは、R・フィルヒョウというドイツの医師が1848年の革命の最中に、同志のS・ノイマンらと説いた「医学は一つの社会科学である」という言葉である。フィルヒョウは、チフスやコレラが貧困層を集中的におそっているという事実を目の当たりにしながら、社会制度の歪みからくる貧困等を解消しないかぎり、目の前の患者を救うことはできないと考えた。だが、彼の考えはまだ不完全のように思える。(1)病の原因を見つけることばかりでなく、(2)ひと度、生まれた病や障害が、逆に原因となって生まれる差別や貧困を見すえ、それらの解消の途を考えることもまた、社会科学(としての医学)の大きな課題であると思えるからだ。関係性を問うスティグマの社会学、また(インペアメントを理由に)生じる可能性剥奪(ディアビリティ)を問う障害学は、(2)を課題とした社会科学であると言えるだろう。 私自身がハンセン病の問題に向き合うことになったのは、1948年に制定され、1996年まで存続していた「優生保護法」(現「母体保護法」の前身)を問い直す過程においてだった。この法律が、例えばハンセン病の人びとにどのような現実をもたらしたかについては、杉野桂子さんがご自身の悲痛な経験を語ってくれるだろう。 障害学との関連で、私が注意を促したいのは次のことである。現在、障害者の権利条約等との関連で言及されることの多い「合理的配慮」(reasonable accommodation)という概念だが、優生保護法下の強制的な不妊手術に対する公的補償を求める活動の中で、私たちが厚生(労働)省等から繰り返し受けとったのは、「優生学的理由にもとづく強制的な不妊手術は、当時としては合理的で合法的なものだった」という主旨の言葉である。 何が「合理的」であるかは、スティグマを押す者と押される者の関係性、力関係の中で、その都度、決められていく。今日ではその非合理性が公的にも確認された日本のハンセン病施策だが、これもまたかつては「合理的配慮」の枠内に入れられていたと言えないか。障害者の権利条約は、「合理的配慮」に「不釣り合いな又は過重な負担を課さないもの」という条件を加えているが、負担に言及するこの付帯条件は、既存の可能性剥奪(ディスアビリティ)を正当化し続ける方向にも機能しうる。 「合理的配慮」という概念が無意味で、無用だと言いたいのではない。そうでなく、それは常に、絶えざる交渉とせめぎ合いにさらされるべきものであり、それらの中で初めてその内実が決められていくものだと認識することが重要だと私は思う。
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