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重度知的障害者/健常者における支援関係−「語れない」障害者の障害学−

夏目 尚(知的障害者入所更生施設)
障害学会第5回大会 於:熊本学園大学

◆要旨

T.はじめに、関心の所在

 障害学とは、「語る」障害者による言説である。従って「語る」ことのできない障害者は、周辺化される。ここでいう「語る」とは、音声言語によるものだけではなく、例えば手話や書記言語、ALS患者の使う「伝の心」のようなコミュニケーション機器、などを含むものである。そのように「語る」という行為を拡大しても、「語る」ことのできない障害者は存在する。例えば、知的障害が重度のため、言語を獲得できなかったような人がそうである。

障害学は知的障害者が周辺化されることを自覚しており、適切な支援のもとに「語る」ことのできる知的障害者によるピープルファーストのことを言及する。あるいは知的障害者のライフヒストリーの聞き取りを行う。しかし、それらの知的障害者は、やはり「語る」ことのできる知的障害者である。

そのような周辺化に抗するために、私は次の作業を考えている。ひとつは重度知的障害者/健常者における支援関係(以下、支援関係と呼ぶ)に関する考察、もう一つは、その考察から導かれる障害学理論の問い直しである。

U.目的と方法

 支援関係に関する考察と、障害学理論の問い直しを本報告の目的とする。

前者については、報告者の勤務する知的障害者入所更生施設A苑(以下A苑)をフィールドとして考察したい。後者については、おもに障害学の代表的な理論である社会モデル及び文化モデルを問い直しの対象としたい。

 前者については、A苑の実習生4名、職員1名からのヒアリングによって得た、A苑の苑生への支援に関する語りを分析する。本報告が対象とする支援関係に特徴的と思われる、指示、制止、苑生の要求に応じることに関わる語りを分析の対象としたい。なおここで取り上げる重度の知的障害者は、表出言語がなく、理解言語も極めて限られている人である。写真や絵を使った、所謂拡大代替コミュニケーションも使っていない。

V.支援関係の考察

(@)指示に関する語り。

トイレに苑生を誘導することについて。語りの括弧内の記述は、報告者が補ったものである。

#1「(苑生が言うことをきかないので)泣いたことがあって。S君が結構職員見てるって聞いてて。認めてもらうまで時間がかかる。トイレに行きなさいって言っただけでも、(怒って)つかまれる。どうやっていいか分からない」(職員)

指示に従わない、というのが、苑生の最初の反応であるが、職員として働く間に、「職員」として認知されて「指示は通る」ようになる。

#2「時間が解決して。S君の中でこの人職員だから、と気づいてくれるようになってからは、指示が通る」(職員)

また指示が通るということは、苑生との関係が成立したとみなされる。

#3「Shさん、野菜嫌いじゃないですか。最初は何を言っても嫌がって興奮して、私の言うこと聞いてくれなかった。しかし、こつを教えてもらってしたら、頑張って野菜を食べれた。Shさんと、微妙に信頼関係できたと思った。」(実習生)

(A)制止に関する語り

例えば、苑生の暴力行為に対して、職員は怒り、その行動を制止しなければならない。

#4「(苑生は)自分よりも何十年も前から(施設に)いる。最初、怒れない。I君に思い切り髪引っ張られた。ぷちっと切れた。はったおした」(職員)

そうした職員の怒りは、最初は忍耐の限度を超えた結果、あるいは自分の身を守るための自然な発露であったかも知れないが、やがて効果的に苑生をコントロールするために使用される。

#5「声を荒げないと怒ってはるって分かってもらえない」(職員)

そのように声の調子で怒りを演出することもあるが、一方で怒りや、それに後続する苑生への体罰を抑制することも求められる。

#6「極力怒らないように心がけでいる。むかっと来たときにやさしいフレーズで言う。きつい言い方だと手を出しやすい。最近、鬚男爵(漫才コンビ)の言い方を使っている。「○○しとるやないかーい」、「うんこしとるやないかーい」」(職員)

(B)要求に応じることに関する語り

 職員は苑生をコントロールし、抑えつけるだけではない。苑生の出す非言語的サインを読み取り、要求に応じようとする。

#7「Mさんは歌って歌って(という雰囲気で寄ってくるので歌ってあげる)。Kとかもこちょこちょすると笑ってくれたり、手をつなぎたいって感じ(なので手をつなぐ)。Tちゃんとか、(頭を)よしよししてって手を引いてくる(ので頭をなでてあげる)」(職員)

 要求のサインを出さない苑生もいる。その場合には、支援が快なのか不快なのかがモニターされる。快と思われる行為が、その後の支援関係でなるべく設定されるように配慮される。

#8「(Yと)買い物に行ってた。車にはすすんで乗る。歩くよりも早く車に乗りたい(という様子)。一番近くの車に乗ろうとする。乗ってる最中も機嫌が良い。どっかに向かってるっていうのは好き。たぶんドライブは好きなんだろう。お店につくと、不満たらたらになる。カートを持たせると、すたすた歩く。周りを見てる。「何か取っていいよー」って言っても取らないけど、商品を渡すと、すぐにカートに入れる。「帰るよ」って言うと不満顔になる。車にのると不満顔」(職員)

さらにこの後に以下の語りが続く。

#9「短時間(の買い物)でもそんだけ(苑生の好みが)分かる。朝から晩まで(マンツーマンで)過ごせたら、どんだけ分かるか」(職員)

 支援関係は、コントロールをベースとしており、そこには自己決定の契機を見つけにくい。職員の指示への拒否を自己決定とみなし尊重するのであれば、支援関係は成立しない。

 しかし、自己決定の尊重というのは、支援者にとっては、支援の対象となる障害者に寄り添うための一つの方法ではないだろうか。そのように考えたときに、語り#8のような快不快のモニターも、寄り添うための方法であり、その意味では、自己決定の尊重と等価である。また、それは自己決定という言い方が、決定する側、つまり障害者側の能力を問題にしてしまうのに対して、支援者側の、快不快を察知する能力を問題にする。しかしそれだけではない。その後の語り#9は、より良質な察知をする条件を求めている。支援者の能力よりも、より充分な情報を得るための時間と空間を要求している。寄り添うことを能力の問題に還元するのではなく、支援の展開される場に還元していく認識は、重要である。

 コントロールされることについて、重度の知的障害者は語ることができない。しかし、少なくとも、施設生活をしている知的障害者のどのような振る舞いに対して、職員はどのような行為をなしているのか、を記述することはできる。そして全国規模でそれらの記述を収集し比較検討することで、コントロールするという行為自体の恣意性や無根拠性を主張することも可能だろう。

 

W.障害学理論の問い直し

 社会モデル、あるいは文化モデルによって記述することが難しいような、重度の知的障害者独自の不利益と思われるものを挙げたい。それは以下の三つがある。

@    言説構築能力がない

A    了解しないルールが強制される

B    支援関係をコントロールする主体となりにくい

@は、社会モデルや文化モデルのように当事者として言説を構築することが困難である、という不利益である。Aは、支援関係の語りに見られたように、例えばトイレで排泄するという社会的ルールが、重度の知的障害者本人にとっては意味がない、了解しないものであっても、強制される。あるいは食事のマナーを守らされる。そのような質の強制が日々あるという不利益である。ルールから逸脱してしまうような「できなさ」は、社会モデルのように「できなさ」を環境の側に回収して「できる」ようになるものではない。文化モデルによる対抗言説の成立も考えられなくもないが、当事者による言説構築は期待できない。仮にトイレで排泄しない、食事を手づかみでするといったことを、支援者側が「彼/彼女らしいもの」として受容することは、逆に支援の放棄になりかねない。従って、そのような強制から逃れることは困難である。Bは、Aとも関連するが、例えば、社会的ルールを侵犯するような行動が、彼/彼女の楽しみとして許容されるような場合がある(例:つばを床の上に大量に吐いて、手でその感触を楽しむ)。しかし、許容するか否かは、支援者側の裁量に委ねられており、重度の知的障害者本人が決定したことではないのである。

 ここに挙げたことは考え方の一例に過ぎない。言いたいことは、既存の社会モデルや文化モデル、あるいは自己決定といった言説の拡張や修正というアプローチではなく、端的に重度の知的障害者におかれた不利益を記述し集積し分析することで、彼/彼女らの不利益とその解消や縮減を可能とする言説を構築するアプローチがあってよいということである。

UP:20081004


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