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文化をめぐる分配的正義――特にデフ・ナショナリズムの正当化とその制約条件について――

立命館大学大学院先端総合学術研究科博士課程 片山知哉

障害学会第5回大会 於:熊本学園大学


要旨

□ 導入

 本報告の最終的な主張は,デフ・ナショナリズムが一定の制約条件のもとで正当化されるというものである。しかしそれを導くにはいくつかの基礎的作業が必要となる。

 初めに,ろう者たちの提出した言語文化モデルという主張の枠組みについて,分配論の立場から検討を加える。そこでは障害の存在論から財の分配論へと議論の枠組みの転換が図られ,いわゆる社会モデルと双方に適応可能な分配的正義の構図が提示される。次いで,言語の財としての性質と所属との関係,言語に基づく差別とそれへの対応としての言語権論,求める財の性質によって境界線が正当化されることがあること,を確認する。

 以上の基礎的作業の上で,後半にナショナリズムを巡って議論を行う。そこで,キムリッカのナショナリズム論を参照し,ナショナリズムの正当化条件(制約条件)を確認する。その上でろう者の主張が,ナショナリズムに妥当し,かついくつかの制約条件はあるものの現状において正当なものであることを指摘する。最後に,それでも残る問題の所在を指摘し,報告を終える。

□ 存在論から分配論へ

 「障害とは何か」という存在論的問い掛けは現在も続いている。しかしそれに拘泥することが有意義とは思われない。

1)基礎的概念の定義について合意を得ることは困難 例:性差,民族,…

2)社会的規定性が社会的分配を正当化するわけではない

 障害学が世界の変革を志向する学であるならば,望ましい世界とは何かという問いについて解を出すべきである。それには存在論では解にならず,直接に規範論的探求が求められる。現在の障害学がそれに対して解を出しているとは私には思われない。

 私は本報告において,必要な財がそれを必要とする人のもとへ分配される世界を望ましいと見做す。但し以下の二点は,本報告では時間の都合上扱わない。

1)この分配の主張の正当化

2)必要な財のリストの特定

 しかし我々は直感的に,あるものを必要不可欠な財として想定しているとは言いうる。それを基本財と呼ぶことにする。以下の議論に資するため,万人にとって同様に必要な財を普遍的な財,そうではなく特定属性の人にとって必要な財を差異化された財と呼ぶことにする。

 社会モデルの主張が,どのような身体状況であってもその個人にとって必要な財は,その個人の負担ではなく社会の負担によって分配されるべきとする主張だとするなら,上記の分配の主張に全く合致する。すると問われるのは,何が必要な財であるのかという問いとそれを実現するための戦略だけである。

□ 言語の分配と言語文化モデル

 言語もまた基本財である。何故なら言語は,人間の活動のほぼすべての領域へのアクセスに必要とされる財であり,事実上「権利への権利」となっているからである。

 従って言語もまた,先述の分配の主張の対象となり,個人の負担ではなく社会の負担によって分配されるべきと言いうる。しかし一つ困難なのは,言語は世界に複数存在するため,どの言語を分配すればよいかという問いが生まれる点である。

 ろう者たちは,自分たちを言語文化的に規定する(言語文化モデル)。そして他の言語文化的マイノリティと同様,文化の伝承・継承を権利として主張する。つまり,聞こえないという身体状況をもって生まれたこどもを,本来「ろう児」であり,「手話言語」と「ろう文化」を身につけて,将来は「ろう集団」へと所属するものと捉える。

 この言語文化モデルと社会モデルとの関係について,どのような議論があったかをここでは辿ることはしない。しかし一見異なるこの両者の関係について,分配の主張という立場からは一元的に捉えることが可能である。

端的に要約すれば,言語文化モデルは言語という差異化された財をめぐる分配の主張をしていたのであり,一方社会モデルとして論じられてきた立場は多くは基本的諸自由,均等な機会,生存に足る所得や自尊感情など普遍的な財を議論の題材としていたということだ。両者は対立する関係にはなく,財の性質が異なるものの,どちらも平等なアクセスを要求している。

□ 言語の性質と所属の利益

 従って,必要なこととは財の性質の検討と,どの財がだれにとって必要なのかという問いということになる。そのためここで,言語の性質について検討することにする。

 言語は,差異化された基本財であり,その価値はアクセスの手段であるということに求められる。そのアクセス先は人間の活動のほぼ全領域に渡るが,個体の内外で分類すると,

1)外的アクセス:行政,警察,裁判所,議会,法律,教育,職場,病院,家族,友人,……

2)内的アクセス:思考,感情,記憶……など自己・人格構成要素

 また,言語は所属と密接に関係し,言語によってアクセスできる場が異なる。しかし言語は習得に時間がかかる財であるため,一個人が獲得できる言語は有限である。従ってこどもの頃に継承した言語によって,そのこどもの将来のアクセス先の幅がある程度決まる。

 集団への所属は,個人にとって必須の益(と共に害)をもたらす。所属成立の条件として,場が実在し,そこにアクセスができ,そこでコミュニケーションできることが挙げられるが,つまり言語・文化はその重要な要素となる。

言語・文化によって所属できる先は異なり,享受できる所属による益も異なる。所属による益には,関係による快や伝承の継承といった差異化された益とともに,様々な普遍的な益もあり,かつ後者も所属先によって異なる。

 ある言語Aを使用する個人が居住する地域が,言語Aのみで外的アクセスのフルアクセスが可能であれば困難は生じない。しかしそこがダイグロシア状況で,言語Bが優位言語であり,言語Aだけでは一部のアクセスしか可能にならない場合は,問題が生じる。

□ 言語権

 言語権とは文字通り,言語への権利を意味し,その内容は多岐に渡る。それは現に存在する言語に基づく差別を是正するための試みであるとも捉えられる。

 言語に基づく差別とは何か。現状では言語には,マジョリティ言語とマイノリティ言語とがある。そしてその間には,アクセス可能な幅に不均衡が存在する(道具的側面:マイノリティ言語話者にとって第一の差別)。

 この不均衡を背景に,マイノリティ言語話者自身が当該言語への低い価値付けを行い(心理的側面),道具的・心理的に高い地位にある(=普遍的な財へのアクセスが大きい)言語へとマイノリティ言語話者は言語乗り換えを自発的に望むようになる(言語ヘゲモニー)。

 だが言語乗り換えは,第一に,乗り換えた先の言語集団に適応できるとは限らず,第二に,第一言語の発達が乏しい段階での言語乗り換えは第二言語・学力の伸びを損ない,第三に,言語乗り換えそれ自体が負担が大きい過程であるという問題を抱える(マイノリティ言語話者にとって第二の差別)。

 スクトナブ=カンガスの言語的人権論は,こうした構造を背景として提起されている。それは現行の国際法の消極性を批判し,マイノリティ言語の保護,とりわけ母語による教育を保障することを国家に求める。

 具体的には,個人のレベルでは母語(およびマイノリティ言語話者の場合は居住国の公用語,従って目指される方向はバイリンガル)による教育とそれを公的場面で使用する権利を保障すること,集団のレベルではマイノリティ言語共同体の存続と自治を保障することが,提起されている。個人的権利と集団的権利は表裏一体である。何故なら言語共同体の存続と自治が保障されない条件下では,言語ヘゲモニーに対抗出来ないからである。

□ 財の性質と境界線の設定

 財には基本的諸自由,均等な機会,生存に足る所得や自尊感情など万人にとって同様に必要な普遍的な財と,言語や文化や関係性などの差異化された財,つまり必要なのだが対象が複数存在することからその選択が求められる財とがある。そして,どちらに含まれようとも,必要な財がそれを必要とする人のもとへ分配される世界を望ましいと我々は考えたのだった。

 このように考えていくと,普遍的な財の分配において境界線を引くことは,不正である。しかし,差異化された財は,特に言語のように習得に有限性があるという意味で相互排他的な財は,必然的に境界線が発生する。また,言語に基づく財,例えば集団所属や文化継承なども境界線が発生する。それは正当であり,更に言えばヘゲモニーにおいて劣勢にあるマイノリティ集団にとっては独自の伝承・継承を保障するために,尚のことそれが妥当する。

 ある属性を持つ個人を最小単位として,統合か分離か,同化か異化か,再分配か承認か,(ユニバーサル化かマイノリティ化か,更に言えば本質か構築か,)を議論することは全く不毛である。我々が考えるべきなのは,財の性質の検討と,どの財がだれにとって必要なのかという,財を対象とした問いだ。ひとは常に,普遍的な財と差異化された財の双方を必要としている。そして相互排他的な差異化された財は,結果的にひとの属する集団を分け,境界線をそこに引く。

 従って境界線を問題にするのであれば,境界線を引くか引かないかではなく,いかなる境界線を引くか,その引き方は正当化されるかを,分配される財の性質と照らし合わせて問うべきである。

 これに関連して,障害文化を巡る議論において散見される混乱について指摘しておく。障害文化を当該属性を持つひとの生の様式と捉えても,つむぎだされた技法と捉えても,身体状況への自己肯定と捉えても,それは構わない。しかし時に両者とも文化を巡る問題と括られ,時に絡み合い明確に峻別できるとは限らないものの,相互作用モデルに基づく承認・誤承認の議論と,ここまで我々が検討してきた伝承・継承の議論とは,異なっている。

 伝承・継承の対象となる言語・文化とは,ひとの自律的思考を可能にするコンテクストである。そしてひとはそのコンテクストの上で,新たな生の技法などのプロダクトを生み出す(そしてプロダクトは流通性を持つ)。ろう者たちの主張する言語文化モデルとは,聴者の言語・文化とは異なる,独自のろうの言語・文化という伝承・継承の場が必要であるという主張であった。

 それが他属性のひとにも妥当するかどうかはここでは述べない。しかし検討しておかねばならないのは,現在のマジョリティ文化とは異なる伝承・継承の場の保障を必要なものとして求めるかどうか,という問いである。その違いを無視した議論は不毛であるばかりでなく,時に(統合が前提となっている場合には)差異を全てプロダクトとして解釈し,その負担を個人に求めるという,文化における能力主義に堕するだろう。

□ ナショナリズムとは

 では,こうした言語・文化といった差異化された財の伝承を行う単位とは何か。本報告では,それをネイションnationと呼ぶことにする。

 ネイション(訳語では民族・国民)とは,近現代政治における基本的概念であるだけでなく,その観念は最も大きな動員力を持っていた。しかしながら,多義的でほとんど定義不可能な語でもある。歴史的には客観的定義と主観的定義,原初主義と道具主義がそれに対して語られたが,充分な説明力を持ちえた定義は今のところ存在しない。

 本報告でも,ネイションについて存在論的議論は展開しない。そうではなく,何かをネイションとみなすことが正当性を持つかに注目する。その根拠は,構成員に有用な差異化された財を提供できるか否かに置くことにする。しかし,その正当化の基準を検討するため,キムリッカのナショナリズム論を見ておくことにする。

 

 近代以降一貫して,国家を担う支配的ネイションは,ネイションビルディングnation-building(国民形成:あるいはナショナリズムnationalismとも呼ぶ)の過程に従事してきた。これは,国家領土内の市民を,単一の社会構成的文化societal cultureに統合していく政策を指す。

 社会構成的文化とは,キムリッカの導入した独自な概念である。これは公的及び私的生活における広範な社会制度で使用されている共有の言語を中核とする,領土的に集中した文化を指している。言語や社会制度の共有を中核的要素とするこの概念は,一般的に流通している文化概念と大きく異なり,宗教,政治思想,家庭習慣,生活様式,性的指向,などの内的多様性と両立するリベラルで「薄い」ものでありうる(常にそうだというわけではない)。しかしながら,だからといって取るに足らないものと考えることはできない。

 国家のネイションビルディングは具体的には,義務教育,国民的メディア,公用語法令,帰化政策,国民の祝日,象徴,徴兵制など様々な道具を用いて,領土内の市民に単一の国民性nationhood,国民的アイデンティティnational identityを形成し,単一の国民による共同体nation-stateを形成しようとしてきた。

 それは歴史的に見て,リベラルで重要な目的にも役立ってきた。例えば階級の分断を超えて,主権の担い手として「人民」の価値を引き上げた。また福祉国家の基盤である連帯意識を強め,教育や職業への機会均等を推進することで社会正義に寄与した。さらに市民相互の信頼感を強め,共通言語を普及させることで,討議的民主主義を可能にした。かつその社会構成的文化は,個人の自律の基盤ともなった。

 しかし国家はそれがどれだけリベラルであろうとも,文化に対して中立的ではありえない。例えば政教分離は理論上可能だが,いかなる言語も採用しない政治など理論上も考えられない以上,国家は必ず何らかのネイションに利する。それどころか歴史的に国家は,単一の社会構成的文化に市民を統合しようとしてきた。従って,国家のネイションビルディングstate nation-buildingは,領土内のマイノリティネイションにとっては破壊的な影響をもたらす。そのため,独自の文化を持つ社会として自らを存続させることを望むマイノリティネイションの側も,国家のナショナリズムと同様のナショナリズムminority nationalismで抵抗してきたのだ(対抗的ネイションビルディングcompeting nation-building)。

 全てのネイションが分離独立することは現実的でなく,全てのマイノリティネイションを破壊し統合することも規範的に正当化できない(なぜ支配的ネイションに認められる文化への権利が,マイノリティネイションには認められないのか正当化できない)。そして国家は,他国との関係上ネイションビルディングを継続する必要がある。

 この状況の中で許容可能な政策とは,(住人にリベラルな諸権利を保障しながらも)マイノリティネイションに国家のネイションビルディングに対抗しうる権利を与えることでしかない。具体的には,土地権,移住を制限する権利,当該ネイションの言語で教育やその他公的サービスを運用する権利,自治権,特別代表権や拒否権などである。それが国家のナショナリズムへの制約条件を為す。そして同様に,マイノリティネイション内部においても,その少数派への同様の権利保障が求められ,それがマイノリティナショナリズムの制約条件を為す。

□ 親子関係におけるナショナリズム再生産

 親子関係が国家のナショナリズムの基盤を形成していることは,繰り返し指摘されてよい。それは身体の再生産が起こる場というだけでなく,イデオロギー注入の最初期段階でもある(アルチュセールは,家庭を国家のイデオロギー装置のひとつと呼んだ)。しかし同様の構造を備えるマイノリティナショナリズムにおいても,同様の指摘をすることが出来るだろう。

 親はこどもに,その情緒的関係性を基盤としながら,様々なものを教える。そして,そこで伝えられる言語や文化こそが,ナショナリズムを可能にしている。かつ,それら言語や文化,関係性や記憶は,こどもがそこから逃れがたくさせる機能を果たす。そのことをタミールは明確に指摘したし,横塚のテクストをそこへの抵抗として読むこともできると思う。

 問題は,我々は必ず,判断において依存的・受動的であった「こども」という時期を経過するが故に,このナショナリズムを完全に拒否することはできないということだ。しかし,与えられる差異化された財が当のこどもにとって,有益だという保障は実はない。そうではなかった場合に考えられうる選択とは,所属するネイションの選択であり,ナショナリズムの内容の吟味であるのだが,このいずれも当のこどもにとっては不可能である。このことが,次に述べるデフ・ナショナリズムの問題枠組みを形成するのだ。

□ デフ・ナショナリズムの正当化と制約条件

 確認しよう。ろう者たちは,自分たちを言語文化的に規定し,他の言語文化的マイノリティと同様,文化の伝承・継承を権利として主張する。すなわち,自らをネイションとして主張する。そして,聞こえないという身体状況をもって生まれたこどもを,本来「ろう児」であり,「手話言語」と「ろう文化」を身につけて,将来は「ろう集団」へと所属するものと捉える。

 ろう集団がネイションである,という提起が正当性を持つのであれば,上述のマイノリティネイションの議論がそのまま妥当する。つまり,支配的ネイションである聴者ナショナリズムが存在する以上,それへの対抗手段としてデフ・ナショナリズムは権利として認められなければならない。その際の制約条件は,構成員へのリベラルな諸権利の保障と,更なるマイノリティへの権利保障の確保である。

 さて,ろう集団がネイションであるという提起は正当性を持つのか。確認しよう,本報告ではネイションについて存在論的議論は展開しない。そうではなく,何かをネイションとみなすことが正当性を持つかに注目する。その根拠は,構成員に有用な差異化された財を提供できるか否かに置くことにしたのだった。構成員個人にとって,ろう集団がネイションであり,そこから差異化された財(言語・文化)が提供されることは有用と言いうるのか。

 聞こえないという身体状況を持つこどもにとって,このことは言いうると考える。

 第一に,普遍的な財の保障という観点からしても,教育媒介言語として手話言語を採用することが不可欠である。その根拠として,一つには聞こえないという身体状況からは,自然に(特別な訓練なしに)習得できるのは視覚言語である手話言語である,もう一つとして第一言語の習得が不十分であると,第二言語(たとえばマジョリティ言語の書記形態)や,思考・学力・人格的発達(普遍的な財の獲得)が阻害される,という点が挙げられる。

 更に,聞こえないこどもの多くは聞こえる両親のもとに生まれてくるため,手話言語による教育保障は(選択の対象ではなく)制度的に為される必要があり,その必要性は両親と言語を共有可能なマイノリティ音声言語話者のこどもの場合以上に決定的と言いうる。

 第二に,将来の所属先という観点から,ろう集団に所属することが益になると言い得るが故に,こどもの頃に手話言語・ろう文化の習得が必要である。ろう集団に所属することが益になるというのは,次の理由による。

 一つ目に,対等なコミュニケーションが可能な場がろう集団であるということ。手話言語を獲得した上でろう集団に所属する以外に,そのような場はありうるかというと難しい。二つ目に,自分の身体状況についての肯定的な思考の枠組みを継承し,それを保障し,承認を獲得することができる。三つ目に,多くのろう者が書き残しているように,それは快の源泉となる。

 手話言語・ろう文化の習得ができなかった場合に,ろう集団への適応が困難になるだけでなく,ろう集団への否定的価値付けをも獲得してしまい心理的アクセスが阻害されるかもしれない。

 第三に,第一・第二で指摘した,発達期において手話言語・ろう文化を継承できる教育を実効性ある形で保障するためには,ろう者による積極的な関与が必要となる。また,第二で指摘した,将来の所属先となるろう集団を,確実に存続させるためにもそれは求められる。

 以上から,聞こえないこどもにとって,ろう集団がネイションとして存続することは有用といいうる。従ってデフ・ナショナリズムは正当であり,国家的に保障される必要があると言い得るのだ。そしてそのためには,第一に財政的基盤の保障が要請されるであろうし,第二に政治設計的には(国家からの分離独立や,地理的分離による国家内自治区という可能性もあるが)最低でも文化自治の保障が求められるだろう。

□ 残る問題

 以上で,デフ・ナショナリズムが一定の制約条件のもとで正当化される,という本報告の核となる主張についての議論は終わった。しかしこれで困難がなくなるわけではない。むしろ,残された問題の方がはるかに困難かもしれない。それを最後に指摘しておく。

 第一点,人材育成という大きな課題が残っている。ろうネイションの社会構成的文化内で,高等教育まで可能とすること。これは構成員の負担軽減というだけでなく,ろう集団に高い能力を持った人材を確保するという目的でもある。これができなければ,文化自治といっても実現可能性はほとんどない。それとも関連するが,現在の音声言語/手話言語というダイグロシア状況を,(バイリンガル教育を展開するにせよ)どう向き合うべきかが問われるだろう。

 第二点,ダブルマイノリティの問題がある。これは集団内の多様性を包摂しうる社会構成的文化の練り上げという課題である。ろうネイションと同様,文化的再生産を行う身体的マイノリティであるゲイ・レズビアン集団との間で,たとえばデフゲイはどちらに所属するほうが益になるであろうか。

 第三に,家族関係や,その関係性に基づく財の問題がある。親子間で身体状況が共有されず,必要とされる社会構成的文化が異なる場合に,どのような解がありうるだろうか。所属を分けるとした場合に,財の補填はどうすればよいのだろうか。こうした観点から,例えば逆の立場であるCODAについてや,更にはろう者と構造的に類似するゲイ・レズビアンの場合の世代間伝承を巡る諸々の困難について,検討する必要がある。

 以上は,まだ解決方向の分かりやすい課題である。しかし第四に,オーディズム体制の下で生じたネイション破壊(あるいは植民地支配)による後遺症をどう考えたらよいか。これには二つある。一つは,難聴者という第三の世界を巡る論点(そして内面化されたオーディズム体制)である。そしてもう一つは,脱オーディズム体制,脱植民地化運動の担い手が,将来的にろうネイションが確立した段階で,その中でどう位置づけられるのかということだ。

 脱植民地化運動が成功するためには,多くのろうネイション外の文化資本が必要となる。言語資本としても,情報を収集し外部と交渉する上では,マジョリティ言語の書記形態が求められるだろう。更にその結果として,場合によっては脱植民地化運動の担い手は,現状の自分の位置を本来あってはならない位置として表象するかもしれない。もしかすると高いエリートでしか担い得なかったその位置もまた,サバルタンの位置なのではないか。

□ 参考文献の引用(主要な部分のみ)

ろう者は深いところで,およそ計り知れないような経路を通じて,世界的ろうコミュニティの一員として互いに結ばれている。いまやそのろうコミュニティは,世界的なろうネイションとして形をなそうとしているのだ。

(Ladd[2003=2007:81])

事実によって規範的なことを語らせる,あるいはそれを醸し出す。相対化という作業は意識的に,あるいはその効果として,そのような仕事だった。価値判断をしていないようでしている。しているようでしていない。ここではこうなっているが,別の場所ではそうではない。今はこうだが,今でない時にはそうではなかった。社会的・歴史的形成物として現れたに「すぎない」。こうした言われ方がなされる。そうかもしれない。しかし今ある一つが,様々あるうちの一つであるとして,その一つが否定されるべきものだとはならない。他の可能性があることは,他の方がよいことを示さない。社会的であることは,それを変更すべきであることを示さない。そんな単純な間違いは誰もしていないと思うかもしれないが,そのように解すことのできる例がいくらも見出される。そう解さないと意味をなさない例がある。

(立岩[2006:257-259])

 第一の問題は,事実としてどこまで社会的規定性を言えるかである。その論争の帰結はときに明らかだが,ときに決し難いことがある。また,時には生れながらに決まっているとしか言いようのないこともある。どうにも頭が働かない,そんなことはやはりある。

 第二の問題は,ここでの社会性の用法が妥当なものかである。少なくとも多くのものは社会的要因に規定されている,その意味で社会的に構築されていると言えようが,そのこと自体はよいともわるいとも言えない。何がよく何がよくないのかは,これといったん別のこととして考えなければならない。このことも先に述べた。

 さらに,これも考えてみれば当然のことだが,社会的要因によって規定されているがゆえに,社会的環境を変更すべきであるとは言えない。構築の語を用いながら説かれる近年の社会学にはそうした性格は強くないにしても,社会政策に連接する言説においては,ときに無自覚なこの連結がしばしば見出される。[……]同時に生理的要因に規定されているがゆえに,生理的・物理的介入が正当化されるわけでもない。

(立岩[2006:270])

 以上は構築=脱構築派の半面である。その人たちは,自分自身から離れること,自分がいる場から離れることを希望として語る。だから,どんな属性にも束縛されない場所に行こうとしてカント主義とつながるという出来事が起こっても不思議なことではない。[……]私はこの威勢のよい言葉を真に受けてよいと思う。それを語ることのできる人は語ればよいと思う。ただ,社会学としては,この辺りから考えることが始まるはずだ。[……]

 すでにあるもののように思えるもの,限定され,固定され,その中で生きていたってよいではないか。そのような方向に向かわなければならない,そうするのがよいとなぜ言うのか。「乗り越え」とか「越境」とか,そんなことは疲れるではないか。そのままでよいではないか。まずそういう醒めた声がある。反省し,乗り越えて,別の自分を作っていくという動作は,途中で妥協してしまう類の自由主義よりさらに徹底して近代主義的であり,破壊的=能産的な主体というあり方に忠実であるとも捉えうる。

(立岩[2006:262-263])

社会モデルの主張が意味のある主張であるのは,それがその人が被っている不便や不利益の「原因」をその人にでなく社会に求めたから,ではない。[……]次に,なにかを実現する(たとえば目的地まで行く)ためにどのような手段を用いるか,それ自体にも問題の中心はないと考えるべきである。[……]

社会モデルの主張を間違って受け取ってしまうと,環境によって対応することはよいが,なおすことはよくないということだという主張だということになってしまう。[……]

核心的な問題,大きな分岐点は,どこかまで行けるという状態がどのように達成されるべきかにある。二つのモデル[=「医療モデル」「個人モデル」と「社会モデル」]の有意味な違いは,誰が義務を負うのか,負担するのかという点にある。つまり対立は「私有派」と「分配派」との対立としてある。社会モデルはそれは個人が克服するべきことではないとする。問題は個人,個人の身体ではなく社会だという主張は,責任・負担がもっぱら本人にかかっていること,そのことが自明とされていることを批判する。

(立岩[2002:69-71])

デフ・コミュニティーは,耳が聞こえないことによってではなく,言語(手話)と文化(ろう文化)を共有することによって成り立つ社会である。[……]自信と誇りを取り戻したろう者が手に入れた新しい自分たちの呼び名は,ろう者とはある種の『民族』なのだと主張していた。

 もちろん,事はそれほど単純ではない。ろう者の約九割は耳の聞こえる両親のもとに生まれる。『民族』の言語である手話も,その文化も,ふつうの民族のように家庭や地域社会の中で伝承されるわけではない。ろう者が初めて自分以外のろう者に会うのは,ろう学校という,ろう者のための特別な学校である。本来広い地域にばらばらに存在しているろうの子どもたちは,そこで初めて仲間と出会い,結束の固い集団をつくる。その集団こそが,言語と文化を伝承するコミュニティーへの入り口なのである。[……]

 ろう者にとってろう学校とは,「領土をもたないマイノリティーの国なのだ」と,ろう文化研究の第一人者であり,日本では『アヴェロンの野性児』の著者として有名なH. Laneは書いている。

(木村・市田[1995=1996:5])

 いわゆる障害者をめぐる思想で,現在多くの人々に支持されているものに,ノーマライゼーションという思想がある。これまで『隔離』され,『排除』されてきた障害者を,社会はもっと受け入れるべきだとするこの思想も,現実には一面的に解釈されがちである。人種差別には,『隔離・排除』型と『同化』型の二種類があり,それぞれの型に対する「反・人種差別」は,もう一方の型の「人種差別」に転化することがよくある,と言ったのは,フランスの社会学者A. Taguieffであるが,ノーマライゼーションの『反・隔離』『反・排除』の思想も,『同化』主義思想へと堕する危険性を持っている。

 この思想は,障害者を地域の学校から締め出し,特別な学校に『隔離』することをやめようというメインストリームの動きに,直接つながっていく。しかし,耳の聞こえない子どもにとって,普通校に通うことは,ことばの通じない群衆の中にほうり込まれるようなものであり,事実上ひとりぼっちになってしまう危険性をもつ。

(木村・市田[1995=1996:11-12])

1850年代,ろう者が自分たちだけの居留地に引っ越せば,おそらく聴者から離れてのびのびできるという考え方に短期間,議論が噴出したことがあった。ジョン・ジェイムズ・フローノイというろうのジョージアの土地所有者が,「私たちに特有の必要や私たちの福祉に欠かせない諸条件は,いまだ知られていないか,提供されていない」から,独立したろう者の国「アウト・ウェスト」を作ろうと主張した。[……]

[支持は得られなかったが]フローノイの大胆な提案で最も興味深いのは,ろう者は必要性ゆえにひとつにまとまるべきであり,そのやむにやまれない状況,また切実性は,国家のような強い政治的具現化を通じてでしか満たされ得ないものであるとフローノイが主張していたことである。[……]フローノイの時代のろう者たちが国家を作ろうとは思っていなかったにしても,ある種の居住地を提案したという事実は,他のエスニック集団とまさしく同じような感情を持っていたことを示している。

(Padden and Humphries[1988=2003:204-207])

 ブラウン対教育委員会事件においてアメリカ合衆国連邦最高裁判所は,黒人と白人の子どものための教育施設を隔離する南部の制度を廃止した。この判決,さらに公民権運動全般は,人種間の平等についてのアメリカ人の見解に多大な影響を与えた。人種に関する正義の新たなモデルは,「分離されてはいるが平等な取り扱い」に代えて,「肌の色を問わない法」というものになり,前者はいまや,人種に関する不正義の代表と見なされることになった。

 しかし,ブラウン判決の影響は,人種関係以外の領域でもたちまち見て取れるようになった。というのは,この判決はエスニック集団や民族集団の関係にも同じく適用可能な原理を定めたように思われたからである。この原理によれば,不正義とは,社会の主要な制度からの恣意的な排除のことであり,また,平等とは,差別の欠如と参加への平等な機会のことである。この観点から考えると,マイノリティに対して別個の制度を提供する法律は,黒人の隔離と何ら異なるものではないように思われる。[……]

 しかし,ブラウン事件の実際の判決は,肌の色を問わないという定式をこのようにして民族的マイノリティの権利に適用することを支持するものではない。多数意見は端的に言って,民族の権利――たとえば,文化が多民族国家の中で自らを自由に発展させることができるために必要となる,自治制度に対する権利――の問題については何も述べていないのである。人種隔離主義者は,白人と黒人が言語や文学の異なる別々の文化を形成していると主張していたわけではない。それどころか,彼らの主張の主旨は,隔離された施設で黒人が受ける教育は,白人が受ける教育と全く同じである,というものであった。問題は,教育施設が全く同じである限り人種集団に提供される施設が別々であってもよいのかどうか,ということであった。そして多数意見は,このような状況の下で人種隔離を行えば,それは「劣等性の印」として,すなわち,人種差別主義の現れと見なされるであろうから,人種隔離は本質的に不平等である,と判示したのである。

(Kymlicka[1995=1998:84-85])

私がこれから焦点を当てる文化は,社会構成的文化という種類のものである。社会構成的文化とは,公的領域と私的領域の双方を包含する人間の活動のすべての範囲――そこには,社会生活,教育,宗教,余暇,経済生活が含まれる――にわたって,諸々の有意味な生き方をその成員に提供する文化である。この文化は,それぞれが一定の地域にまとまって存在する傾向にあり,そして共有された言語に基づく傾向にある。

 私がこれを「社会構成的文化」と呼んだのは,それが共有された記憶や価値だけでなく,諸々の共通の制度と慣行をも含んだものであるということを強調するためである。[……]現代世界では,文化が社会生活において具体化されるということは,それが制度において――学校,メディア,経済,政府などにおいて――具体化されなければならないということを意味している。[……]

 各国における単一の共通文化を創り出そうとする圧力を考えれば,ある文化が近代世界において生き残り,発展するためには,それは社会構成的文化でなければならない。われわれの生活において,また我々の選択肢を規定するという点において,諸々の社会制度は比類なき重要性を有しており,いかなる文化も社会構成的文化でなければ,周縁へと押しやられ衰退する一方となるだろう。

(Kymlicka[1995=1998:113-118])

ウォルドロンによれば,より豊かで多様な文化のもとでの生活を望む一方で,それにもかかわらず独自の文化の保持ということを主張するのは矛盾したことである。文化の個別化をこのように強調することは,文化がより豊かで多様なものになる過程を妨げるものだと,ウォルドロンは主張する。[……]したがって,もいわれわれが,人々に与えられる価値ある選択肢の幅を広げることを望むなら,別個独立の文化という観念を放棄し,それに代えて,異なる起源からの諸々の文化的意味の寄せ集めという観念を広めたほうがいいであろうというのである。

しかしながら,私は,ウォルドロンの結論は間違っていると考えている。たしかに,現代ではどこの社会でも,その成員に与えられる選択肢はさまざまな民族的・歴史的起源に由来したものである。このことは正しい。しかし,これらの選択肢をわれわれに「与える」もの,あるいは我々にとって有意味にしているものとはいったい何であろうか。人々が有意味と考える「文化的素材」には,結局のところ限りがあるのである。すでに論じたように,選択肢が我々に与えられるのは,それが社会生活の共有された語彙の一部となっている――すなわち,その選択肢が,我々が影響を受けている共有された言語に基づく社会的慣習に具体化されている――場合である。実際,ウォルドロンの例は,この見解を裏付けるものだと私は思う。というのも,『グリム童話』がわれわれの文化の重要な一部となっている理由の一つが,まさにそれらが英語に翻訳され広く普及してきたという点にあるのは,間違いないからである。[……]

独自の社会構成的文化を保持しようという願望と,文化的に孤立しようという願望との間には何ら内在的な関係はない。多くの場合,自治の目指すところは,小さな民族が大きな民族と,より公平な基盤に立って交流できるようにすることにある。自分たちより大きな世界が持っている業績を,いつどのように取り入れるかに関する決定は,それぞれの文化に任されるべきである。自分たちより大きな世界から学ぶということと,それに圧倒されるということとは別問題であるから,小さいほうの民族が変化の方向と速度を制御するために自治権が必要とされることがあるのである。

(Kymlicka[1995=1998:155-156])

私が国境を部分的に閉ざすことの正当性を擁護しているのは,民族集団が自分たちの公正な分け前を上回る資源を維持することを,権利として擁護するつもりなのではない。このことを,私はもう一度強調すべきであろう。逆に,世界のもっと貧しい国々と自らの富を分け合うという責務に,ある国が応えるのを怠っているならば,その国は移民を制限する権利を喪失すると主張したい。

(Kymlicka[1995=1998:第6章註18])

一般的に言えば,人々が育まれた言語や文化は,自主的に選んだ嗜好というよりも,選択の余地のない状況の一部と見做されるべきである。それどころか,言語や文化へのアクセスは時に,有意味な選択をする能力そのものの前提条件となりうる。別の言語や文化のために自分の言語と文化を放棄するのは,確かに不可能ではない。だが多くの場合,非常に困難で費用のかかる過程である。また,多数派の構成員が同様の犠牲に直面しないのに,この費用の負担を少数派に期待するのは理屈に合わない。

(Kymlicka[2002=2005:493])

このように,国家は「国民建設」の過程に従事してきた。すなわち,共通言語と,その言語で運営される社会制度に対する共通の構成員意識の育成,及びそうした制度への平等なアクセスの促進の過程に従事してきたのである。公用語,教育の場での必修科目,市民権取得の要件に関する決定はことごとく,社会構成的文化への参加に基づく特定の国民的なアイデンティティを促進することを意図していたのである。

(Kymlicka[2002=2005:501])

ナショナルな義務を果たす最も一般的な方法は,自己犠牲を通じて,あるいは,個人のよき生と利害とを集団的な福祉の下位に置くことではなく,むしろ文化的な対話に参加することにある。われわれが子供達に教える言語,枕元での夜話,そして子守歌は,ネーションのために死ぬ覚悟を表明するのと同程度に十分な人々によるナショナルな義務の遂行であろう。

(Tamir[1993=2006:209-210])

「脳性マヒ者にとって一番不幸なことは脳性マヒ者の親から健全者といわれる子供が生まれることである」と言ったらカンカンに怒られるであろうか。黒人の親から黒人の子供しか生まれず,部落民の親から生まれた子は部落民として扱われる。我々の運動が同じアウトサイダー運動といっても,黒人の人種差別反対運動や部落解放運動と異なるところはここなのではあるまいか。

 脳性マヒのありのままの存在を主張することが我々「青い芝」の運動である以上,必然的に親からの解放を求めなければならない。泣きながらでも親不孝を詫びながらでも,親の偏愛をけっ飛ばさなければならないのが我々の宿命である。一方我々が人の子の親となった場合,親であることもけっ飛ばさなければならないであろう。このことは脳性マヒは子供を生んではいけないということではない。それは長年,社会・家庭における差別によってつちかわれた欲望,劣等感,世間並みという妄執の混じり合ったどろどろしたものを,子供の中に注入してはなるまいということなのである。

(横塚[1970=2007:27-28])

 人々の考え方は,社会制度,宗教,階級などそれぞれの属してきた生活環境により異なるのだが,最大の生活環境は人それぞれの肉体であり,この環境はどこへ行こうと一生ついて回るのだから,人はこの環境に最も多く規制される筈である。

 健全者といわれる人達と我々脳性マヒとは明らかに肉体的に違いがある。つまり私の持っている人間観,社会観,世界観ひいては私の見る風景までも,他の人たち特に健全者といわれる人達とは全然別なのではあるまいか。もし違うとすればどう違うのか。つまり私の世界がある筈であり,これが私の世界だといえるものを具体的に示さない限りそれはあるとはいえないと思った。

(横塚[1970=2007:58-59])

(たとえば)ユダヤ人やジプシーのアイデンティティは,またすなわちユダヤ人やジプシーの秘密またはクローゼットは,明確な祖先からのつながりと応答可能性とにおいて,そして個々の(最小限でも)家族という原文化を通して得られる,文化的アイデンティティのルーツ(いかに歪曲し両面価値的であろうとも)において,ゲイ独特のヴァージョンとは異なっている。

(Sedgwick[1990=1999:106-107])

一般に国内植民地論は,一国内の文化的民族的特異性を持つ周辺地域が中央に対して植民地的状況に置かれていることに注目する。だが同じ差別と搾取の関係は中央の都市の内部においても観察されるであろうし,また同じ関心のあり方は,国内植民地状況に置かれた周辺部と海外の植民地との関係にも向けられるであろう。[……]

 ここで何より強調したいのは,国民国家の時代の問題として提起された国内植民地論をグローバル化時代の問題として組みかえた時にどのような展望が開けるかということである。アメリカ国内におけるエスニック・コンフリクトの問題を,ヘクターが場所と時代を置き換えて一五三六年から一九六六年のイギリスに適用することによって,国内植民地主義の普遍性を明らかにすることができたように,私たちは,国内植民地主義の問題をグローバル化時代という現在の時点に置きかえることによって,国内植民地主義論のこれまで隠されていた本質を明らかにすることができるかもしれない。[……]

 ただ国内植民地という言葉が発せられたとたんに予測されたはずの一つのことについてだけ記しておこう。それは,国外にあるいわゆる植民地を対象とした植民地主義と国内植民地主義とは本質的に異なるものであろうか,という問いである。その答えは,国家的な,したがってナショナリズムの観点に立てば「然り(異なる)」であろうが,被害者である住民の立場に立てばどうだろうか。あるいは問いを変えて,自国の軍隊による虐殺と他国の軍隊による虐殺とは本質的に異なるものであろうか。その答えはすでに出ていると思う。あるいは民族資本による搾取と他国の資本による搾取とは本質的に異なるものであろうか。世界における貧富の格差ばかりでなく一国における格差がますます増大していくなかで,住民の答えはすでに出されているはずである。資本に民族の違いはないのだから。

(西川[2006:17-21])

 地方が一種の植民地であったことは,「文明化」と「同化」を口実とする沖縄や北海道の「経営」(「北海道旧土人保護法」は一八九九年(明治三二年))を見れば明らかであるが,あらゆる地方は同じ意味で多少とも植民地であった。そのことは地方の行政に携わる官僚にとっては自明のことであろうが,地方の学校で教える「田舎教師」たちもまた十分に自覚していたことであろう。地方と植民地の類似性は,日本が植民地を得て植民地行政を始めるときに,内地の地方行政が一つのモデルになりえたこと,あるいは逆に,植民地行政の経験者が日本の地方改革に植民地の行政を持ち込もうとしたことによっても明らかだろう。世紀転換期の日本の地方は国内植民地論の検証の場としてふさわしい条件をそなえていた。だが植民地の光に照らして地方の問題を考えることは,そこにとどまらない。全国民にかかわる国民化もまた植民地化ではなかったかという疑問を,私たちに呼び起すからである。少なくとも国民化とは「文明化」と「同化」であったのだから。町から来た教師に「方言」を禁止されて「国語」を学ぶ地方の小学生と,他国から来た教師に「母国語」を禁止されて「日本語」を学ぶ植民地の小学生のあいだに,どれほどの違いがあるだろうか。女性は「最後の植民地」という言い方を借りるなら,国民は広大な「最初の植民地」であった。

(西川[1999:37-38])

民族的マイノリティの「対抗的な国民形成competing nation-building」にかんするキムリッカの指摘は興味深い。この問題は民族自決からアイデンティティ・ポリティクスに至る広い射程を持つと同時に,多文化主義の隘路をも示しているからである。国家あるいは多数派の国民形成政策に抵抗して,独自の民族文化や固有の制度を維持するための闘争を続けてきたマイノリティ集団は,その結果として彼らが対抗してきた国家や多数派と同様の手段をとり,同様な国民形成政策をとるに至る,とキムリッカは言う。[……]

同じ問題は国家間にも,あるいはより小さな民族集団と国家の間にも起こりうる[……]。民族的マイノリティだけが「対抗的competing」なのではなく,あらゆる国家が「対抗的」であり,あらゆる国民形成が「対抗的」であり,その結果として諸国家は国家間の差異を強調しながらも,「対抗的」であるがゆえに類似の構造をもつに至る――これこそが国民国家と国家間システムを貫く論理であり力学であった。こうした構造の中で発生するナショナリズムは常に両義的であり――排除と包摂,抑圧と解放,等々――その両義性こそがナショナリズムのダイナミズムをなしている。

(西川[2000:58-59])

 あらゆる文化はもともと植民地的なものである。

(Derrida[1996=2001:74])

□ 参考文献情報

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UP:20081004
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