>HOME 「障害者の地域生活移行を考える ~居住支援の視点からのアプローチ~」 ○伊藤佳世子(千葉大学大学院人文社会科学研究科博士前期2年) 障害学会第5回大会 於:熊本学園大学 ◆要旨 ■研究の目的 この研究の目的は、重度障害をもつ長期療養者が地域生活へ戻ることにおいて、「施設から地域へ」の移行は何が壁となって困難なのかを、居住の視点から明らかにすることである。 また、自ら新しい選択肢をつくりだせない障害者に対し、どのような介入が必要になるのかを検討する。 ■研究方法 実際的な支援展開におけるアクションリサーチ 田村はA事業体をつくり、伊藤はB事業体をつくり、そこから支援を展開している。 スタッフ自宅において障害者下宿を実験的に実施。事業展開は以下のようである。 <利用者の概況> 療育手帳Bでほぼ自立。区分認定を受けていないが、非該当または区分1が予想される。 → 一人で火を扱かうことが困難。時間感覚がスローで少し声掛けが必要。落ち込んだり気分のムラが多少あるため、食事のときに会話をして今日一日感じたこと、本人なりの言分などを聞いてあげることなどが必要くらいの援助である。専門的な心理的サポート等は、法人がフォローするということを前提として、障害者下宿が開始された。 <支援過程> 養護学校高等部卒業後、就職した工場が千葉県から埼玉県へ移転。それにともない一家埼玉県に移り住み一戸建てをたてて生活していた。10年ほど勤務したその工場が、近年の不況等のあおりをうけて閉鎖することになり、千葉県または埼玉県の新しい工場への勤務移動を命じられることになった。そこで以前暮らしていたことから千葉県を選択し、大宮から始発電車に乗って7年間通った。帰宅時間が11時を過ぎることもあったと言う。年齢も30後半となり、体力的な低下も心配した親御さんと本人の声から、自立して生活することを決意。千葉県の工場へ通える暮らしの場を探して東京都の江戸川区から千葉市までの湾岸地域をくまなく探したが、グループホームなどを見学しても、本人のニーズにあった、また親御さんの希望に合った支援体制が期待できないと感じていた。千葉市花見川区のワーカーからA事業体を紹介され、相談に来る。ケアホームは男性のみの対応であったが、相談にのったところ、ケアホームで暮らさなくてもなにか違う方法で暮らしの場ができるのではないかと理事長ほか、スタッフが考え、向上から近いスタッフ自宅の1室を開放し、障害者下宿というかたちで生活することになった。 <支援の実際> 平成19年9月入居。まずは1泊の体験宿泊からはじめたが、環境の急変への配慮から、実際に完全入居となったのは10月からであった。週末は大宮の自宅に帰るが、土曜日出勤や残業も多く、帰れないときもある。週末は千葉に住んでいる友人と会うことも多いようで、わざわざ大宮へ帰ったのに千葉で友人と会っているときもあり、スタッフ夫婦からそういうときはこちらから行ってもいいのよと声かけをされている。(本人または親の要望もある様子)その後、土日にパソコン教室へ通いはじめた。職場へは自身で通勤し、朝食、昼食はお弁当と水筒、夕食の準備、入浴準備、あとは次の行動へ移るときに声かけが必要な程度である。普段は快活な性格で職場での出来事などを夕食時にスタッフ夫婦に話すが、友人関係で精神不安定になることも度々あり、そのときには食欲がおちたり、声かけをしても次の行動に移れなかったりする。またそうしたときには夜遅くまで寝ずに友人と携帯メールをしていることもあり、見守りや語りかけが必要になる。実家に帰った折に、親にそうしたことを話すこともあり、両親からスタッフ夫婦や法人に電話相談があることも度々である。実家から帰ってくることができずそのまま1週間休むこともあるが、スタッフ夫婦も「日頃人よりまじめにがんばって仕事をしていて疲れもでるだろうから十分休んでから来てもらえればいいですよ」とおおらかに見守られながら生活している。 <運営について> Ø 障害者下宿については、市役所に生活ホームにしたいという旨の相談をおこなったが、ケアホームを運営しているのだから、そことあわせて申請してほしいと言われた。しかし集団生活とはちがうこと、A事業体のようにアットホームなケアホームであったとしても、さらに個別支援の要素が強いこと、里親や職親的な役割が大きいこと、実際的には自宅の改築費用、食費の計算、負担、介護量などをそろえることが難しいということから、このようなかたちをとった。 Ø 受け入れに当たって、自宅の改築する必要があった。(入り口やエアコンの取り付けなど)費用はスタッフ夫婦が持つことになった。月10万5000円で、家賃、水道光熱費、食費等を賄っているが、夫婦と同じ一つ屋根の下で暮らしているので、収入は改築費用の返済にあてている。また年金生活者の夫婦にとっては、また子育てをするような思いで生きがいにもなっている。 ② 障害者下宿に関するその後の支援経過 上記の支援は1年間に及んだ。支援の終了の過程について最後にあらわしたい。週末に実家へ帰っていたが、どうしても腰の具合が悪く、治療をしたいので少し休ませたいという申し出が母親からあった。最近、本人も年齢的に現在やっている生肉工場の仕事が体力的に難しい状況になってきたことについては、下宿家族についても理解をしていた。また、障害者枠での一般就労の場の多くは、これまでのような日本人のパート労働者から、賃金の安い外国人労働者の就労の場になってきていることもあり、コミュニケーションの障害やちょっとした配慮や支援がない、また独特の差別意識(なぜ障害者と私たちが同じように雇用されなければならないのかなどの考え方)の中で、状況での労働の場となっている現状もあり、この事例でも例外ではなく、下宿家族は毎日の食事の場面でその思いを利用者本人から聞かされてきていた。(おそらく実家においても、腰の具合が悪くなったことをきっかけとして家族へその話が及んだのではないかと推測している。)そういったこともあり、職場をやめさせるという結論に家族の中で至り、収入がなくなるのであれば下宿もつづけられないという申し出があり退居することになった。本人は下宿は続けたい、でも職場はやめたいといっているとのこと、下宿家族からは、例えばここに暮らしてちがう職場を探すこともできるのではという提案をしたものの、退居への家族(親)の意向が強く、自宅から通えるところにしてほしいという申し出もあり、やむを得ず退居となった。 退居においてもさまざまなやり取りがあった。例えば家族からは「本人は片付けなどできないため、一人ではいかせられない。引越し業者を頼みたいので対応してもらいたい」という意向があったため、下宿家族からは「本人は自立していて、自分で片付けはできるし、こちらもできないところについては、見て支援するから、本人にまず片付けに来させてもらいたい」というやりとりがあった。1年間の支援過程でも、「本人が友達とうまく言っていないようだから、友達を呼んでパーティーをしてほしい」など、いくつか変わった申し出があったこともある。 障害のある人の自立を考えるとき、家族の意向、これまで暮らしてきた家庭文化を背負って、居住支援にあたらなければならない状況があることを実感させられる状況がある。下宿家族は、今後の住宅の改装費用、設備費用についてすべて負っていかなければならない状況にある。制度によるグループホーム、ケアホームなどの居住支援のほうがこういったリスクを軽減できること、家族の文化や意向とは切り離すための、はっきりとした契約関係ができることなどのメリットもある。一方で、本当の生活なのか、居住なのかという疑問ものこるのである。障害のある人の居住を考えるとき、制度なのか、制度外なのかというラインをどこで、どのような視点で引くのかを考察することの必要性を実感させられた事例である。 ②B事業体におけるアクションリサーチ 30年間長期療養をしている筋ジストロフィー患者の病院からの地域移行をおこなう。支援展開は以下のようである。B事業体におけるアクションリサーチの筋ジストロフィー患者Rさんについて <Rさんの概況> Rさんの生育暦、父母兄二人の末っ子として昭和45年に生まれ、3歳で筋ジストロフィーと診断された。兄の一人が同じ病気を持ち、家族はその兄と暮らしていること、また経済的な問題もあり、Rさんは家族からの経済的な支援と介護を受けることは期待できない。 小学校2年生から養護学校に通うために入院する。Rさんが通った病院併設の養護学校は入院が原則なので、そこから療養生活が始まる。それから30年病院で療養生活を続けるが、病院を出たいという思いは漠然とある。しかし、病院を出たい思いを形にする方法はみつからないまま入院が続く格好となる。療養と言っても彼女には医療的なケアの必要はなく、毎日体温を測ることや、投薬くらいでした。 Rさんの機能上、活動上、社会生活上における困難は、身体の機能障害(四肢機能全廃、しかし指先や手首は少し動く、コミュニケーションに問題はない、車椅子には長時間座位が可能)と別に8歳から30年に及ぶ病院生活において、カーテンで仕切らない部屋に居たことがないので、全く一人で過ごしたことがないという困難がありました。また、自分の体のことを詳しく、家族や医師と話したこともないし、病院の介護の流れは個々に合わせた生活ではないので体力もどのくらいあるか分かりませんでした。更に、病院の中だけしか人間関係や社会関係がなかったこともあり、社会的な経験の欠如が地域移行への勇気を持つための大きな壁となっていた。 ○筋ジストロフィーの医療的世界 全国26箇所の国立病院機構に筋ジストロフィーの専門病院がある。診療報酬が障害者施設等入院基本料となっており、長期入院が可能。また、筋ジストロフィーは診療報酬に優遇を受けており、病院から引く手あまたである。 養護学校への入学に原則入院のところがある。養護学校入学時から入院が始まり、その後も継続して入院しているケースが多い。そして、ほとんどが死亡退院。 ○ 病院での収支 身体障害者手帳1級認定(昭和48年3月) 障害基礎年金1級(年間99万100円) 重度心身障害者医療制度による医療費助成 障害者自立支援法療養介護給付の自己負担(低所得者2 24600円) 食事療養費(14400円) 電話代雑費、有償ボランティア代金、外出ヘルパー分の食費、宿泊費、交通費など 一番かかる費用が外出費用である。それが彼女の生きがいであった。しかし、生きがいの部分には公的資金が下りにくい状況である。 Rさんの地域移行は「無機質、無色でない生活をしたい!」と言う言葉からはじまった。病院の近隣市町村への転居を希望するも、病院の療育指導室、相談支援事業者では全く話が進まず、ボランティアを伴い外出し、自ら転居希望先の市町村福祉課へ相談、転居費用がないために生活保護申請をしましたが、「療養介護を受けている」と言う理由で却下。更に、社会福祉協議会の生活福祉資金を申請するも「生活保護目的の自立には対応しない」という理由で却下、その間に24時間の介護を条件に転居先のアパートが決まり、支援者たちからの金銭的援助をうけ、住民票を移動することになった。 また、24時間の重度訪問介護サービスを市町村に希望しましたが、審査会の日程が近くないという理由から支給には1ヶ月以上を要すると言う回答であった。経過措置としての29時間のみの提供がされ、24時間介護が必要なRさんにとってはこれでは到底足りず、それ以上の時間はボランティアと制度外のケアを確保しなければならない状況であった。更に、退院の一週間前に再度生活保護の申請をお願いするも、相談扱いのみで正式な申請は受け付けてもらえず、経済的な見通し、支援の見通しが立たないまま退院の日を迎えることとなる。 退院後40日してはじめて生活保護がおりる。また、審査会は退院36日後に開かれ、初めて正式な時間数が決定した。 ■ <居住>の視点からみる問題点 ① 病院は住む場所に成り得るか? Rさんはどうしても社会的支援、つまり制度に頼った自立をしなくてはならないが、制度の視点から見た「居住」には最低減の生活保障しか許されていない状況が浮き彫りになった。Rさんの場合、病院に居る間は生活保護の申請が却下されたが、その理由は「病院と言う住む場所があるから」という理由であった。しかし、「病院に居る」ことと「住む場所がある」ということは同じことなのか、居住として充分なものと言えるのかと言う疑問がある。病院では毎日ご飯が出てくる、洗濯も週に2回お風呂日に依頼することを一度申請したら毎度やってもらえる。介護は流れ作業で起床から就寝まで、食事の時間、排便、排尿、洗顔、車椅子の乗車降車まですべての時間が決まっている。パソコンが見られる時間もすべて決まった中にある。そういう自分で作らない生活スタイルが居住として保証されていることは悪いことではないのかもしれない。しかし、支援者やボランティアなど、病院のシステムの外にある人との関係の中で、新しい生活への欲求を見出し、「そういう生活がつまらない」「自分で考える生活をしたい」と言う彼女の意向には、現行の制度の限界性がはっきりと浮き彫りになっているだろう。マズローの欲求の5段階からみれば、Rさんの事例では、制度による保障は<安全欲求>までしか満たされていないことになる。また、地域生活初日のRさんの一言が印象深い。「ぐっすりと眠るってこういうこと?」(地域生活初日のR氏談)初日からの疲れもあっただろうが、Rさんの場合、夜間の援助は約1回でよいが、病院では、カーテンで仕切られただけの部屋に4名で暮らしており、2時間に1回の介助が入るため、ぐっすり眠るという経験を30年間したことがなかったという。介護者側が考える<安全>を守るために、<生理的欲求>までも侵されてしまっている状況がある。社会保障は人間の成長をうながせるホリスティックなものであるべきではないか。 ② 制度の中で語られる障害者の限定された「居住」 A事業体の事例では、2件のケアホームを運営している。ある在宅支援サービスを利用している利用者家族に入居相談をしたとき、次のような発言があった。 「家族としては、本人のライフスタイルを一転させるのではなく徐々に可能性を考えながら自立生活を考えたい。自宅で家族と暮らしながら、家事援助を利用して徐々に独り立ちをさせていくようなかたちは考えられないか。必要があるならば大きな家を買い、別棟をつくり、そこで支援をうけながら生活するなども想定している」 「どのような暮らしの可能性があるのか、制度の中での暮らしの場のかたちしか親たちは知らないために、親の会等での話にもグループホームやケアホームという選択肢しかあがってこない。もっと多様な暮らしを提示してほしいし、追及していきたい。」 上記は家庭に資本が十分にあった場合の意見でもある。しかしながら、発言の中には障害者福祉という枠組みの中でとらえられている暮らしの場やかたちが限定的であることが指摘されていることは大きな意味があるだろう。自立生活における「居住」を考えるとき、(これは日本とかもしれないが)<労働(日中活動)>と<暮らしの場>がセットで考えられる。自立支援法においても、<日中ケア>と<夜間ケア>という枠組みが改めて導入されたのは確かである。しかしながら、自立支援法の導入によって本来ならば、日中の暮らしの場が流動的に選択できるようになってくるはずであるが、多くの利用者がこれまで利用していた施設での生活をつづけているのが現状である。それはセットで考えられるべき<暮らしの場>が限定的であること、また家族介護が基本となる日本において、親の会等新たな暮らしのモデルを創造することは難しいのが現実である。さらに事例のように障害者枠における一般就労の現状は、非常に流動的な労働市場の真っ只中に置かれているケースも多くあり、その場合、暮らしの場を選択するにいたる余裕もなく、また労働市場の流動化とは反対に、暮らしの場は限定的である。 ③ 「出会い」(人間関係)からはじまる支援 利用者の自己実現のある<居住>に結びつけるためには、制度の中で準備された場所、人(支援者)のみでは本当の<居住>ではないのではないか。A事業体、B事業体ともに、このような制度の枠組みを超えた支援を可能にしているのはなぜか。A事業体、B事業体に共通することは、「出会い」(人間関係)から始まるケア実践だということである。施設があってそこに入所することでの出会いではない。「支援する側」「される側」という立場ではなく、両者の力で相互作用的に暮らしの場をつくっていこうという試みがある。一方で、両事業体とも、重度障害者を対象にしていることを考えると、障害程度区分ありきでの暮らしのかたちを限定して考えていないこともわかる。しかしながら、このような行動は関連の福祉事業を行う人たちや行政側から「感情的な支援」として低く評価されてきた。制度の枠組みの中では語れない「生」の実際があること、そこには相互作用的な「生」の実際があること、そこには障害程度は関係ないということがわかる。障害のある方の<居住>を考えるとき、医療、福祉、コミュニティが分断している、政策上の大きな問題があるが、上記にはそうした制度の分断がおこる原因の一端をみることができる。制度による枠組みを超えた場所、人(支援者)による<介入>があって、はじめて「地域に暮らす」が達成できるのではないか。このように枠組みを超えた支援には、日本文化におけるケアの家族依存主義と経済成長を前提とした社会保障制度に対して、あらたなケアへの視点を導く可能性がある。 ■ <介入>の視点からの問題点 ① <マンツーマンの非常勤職員>と<少数の専門家であり常勤職員> B事業体の実践からは、介護側からの都合でなく、被介護者側の都合を考えた場合、常に介護が必要な重度障害者は手足となる介護者とのマンツーマンであることが、何より生活の質を高める条件である。一方で、<介護する側><サービス提供側>から言えば、マンツーマンの人員を確保することは非常に難しい(不可能に近い)。その一番の理由は居宅介護事業所が受けとることができる介護報酬が、利用時間数のみで判断されるからである。重度障害者の場合、重度訪問介護([2])が適用になるため、(単価が安いことは注を参照)常勤をたくさん雇ったり、更に彼らにボーナス等を支払うことは難しい。途中、利用者側が入院をしたり、サービスの変更があったりなど不安定でいつまでサービスが続くかの見通しがもてない中で、パートタイムによる介護者しか雇いにくい現状がある。彼らの生活保障を雇い側としてしっかりと保証することができない一方で、人数だけはたくさん集めなくてはならない状況である。 一方で、上記のようなリスクに対し、病院のように、安定した介護を保証し、少しの介護者で多くの利用者を見れば、経営的に安定する。被介護者を一所にたくさん集めて、少しのしかし専門職ということを売りにできる介護者によって支援を展開できれば合理的である。例えば国立病院機構の筋ジス病棟の職員は国家公務員である。収入は保証されている。病棟では深夜帯に2人の看護師と1人の療養介護士で40人の重度障害者を介護する。寝ている人が多い時間帯とはいえ、体位交換もあれば、経管栄養もある。このような人員体制のおかげで質は低い面もあろうかと思うが、人員をきちんと確保することは不可能なことではない。 これはA事業体の実践でも同じような例がある。国はグループホーム/ケアホームの基準が満たされないために事業化できない場合を見込み、いくつかのグループホーム/ケアホームが場所が離れていてもある規定範囲(2㎞範囲)以内にあれば1人で4か所まで持てるという制度緩和(電車に乗って見回ってもいい)を図った。A事業体ではそれは<居住>支援でなく<監視><管理>ではないかと感じている。実際にこのようなかたちで事業展開をはかっている社会福祉法人では、宿泊7000円で学生にアルバイトでお願いし、ぎりぎりの採算で運営しているという話を耳にした。そこまでしなくてもA事業体の2件のケアホームは夜間支援は常駐で運営ができている。その理由の一つには、実質的な支援者のみしか報酬をとっていないことがあるのではと考えている。管理者やサービス提供責任者は、実質的に支援に入ったときのみ報酬をうけることになっている。二つ目の理由として、世話人が障害者支援のプロではなく、地域在住の中高年世代が中心であることも大きく影響している。できることを協力したいという思いのあるメンバー、年金生活者もおり、宿泊5000円でのお願いが可能となった。さらに、必要な食材を持参してもらったり、利用者の好みにあわせて食材をもちよるなど、ご近所付合いの延長のような支援、生活者の視点に立った支援が展開されている。 ② 命の責任者とは誰か 上記のようなリスクを帯びながらも、支援を展開し続けたのはすでに人間関係があったということがある。障害者の支援者になったときに、私たちには多くの責任がつく。その障害のある人を親からお預かりした責任を課せられた人であり、病院から命の責任者と言われた人となる。 病院から出て行くときにRさんは「一生の面倒はみてもらえるのか」「命の責任をとるのは誰なのか」ということを散々言われてきた。障害者は常に誰かに責任を持ってもらうべき人になっているのが現状である。障害が重ければ重いほどその傾向は強い。さらにそこには日本の文化としてのケアの家族依存が影響し、親が責任をとるという選択がとられる場合が多い。A事業体の実践でも、本人の意向よりも親の意向により、障害者下宿を退去するという選択があった。B事業体においても、退院にいたるまでそのことが親、本人に問われて不安がつづくという状況があった。果たして、親が責任を負い続けられるのだろうか。病院で少しの人数の看護師が介護をすれば安心で、命の責任はとってもらえるものなのだろうか。病院を出るときに病院側に説明を求められたことは「命の責任をとるのは誰ですか?」ということであった。命の責任は誰かがとれるものなのだろうか。コミュニケーションのとれるRさんの命の責任者はRさん以外に成り得るのであろうか。そもそも専門家たちが「命の責任は誰が取るのか」と言う話をすることによって、障害者の多くの自由や選択肢を奪っている現状がある。 このような<命の責任は誰がとるのか>という議論をさらに強固にしてしまうことに、病院から地域移行時の空白の時間のリスクの問題がある。病院の中の「療養介護」から、地域移行後への「重度訪問介護」というサービスの移行にはサービス内容の具体的な決定には40日程度かかる。その間に行政側から受けた暫定的な時間数だけヘルパーを雇うというのでは重度障害者であるRさんの命に関わるため、事業所で負担してヘルパーを雇うことになる。これを親が、または家族がコーディネートすることは不可能に近い。結局これまでの生活をつづけたほうがいいという選択にいたるのである。 ① 専門性への依存=<管理・監視>の支援へ 筋ジスをもつRさんは幼い頃から身体を管理され、身体情報をデータ化されてきていて、親と医療者の方が自分の身体情報を知りえているという。カーテンに仕切られないガラス張りの4人部屋で療養生活を30年過ごしてきた。栄養管理された食事を取り、タイムスケジュールどおり動く毎日で、全ては病院側によって与えられた安全で安心の生活を30年間過ごしてきた。特に具合が悪かったわけでもないが、筋ジストロフィーという病をもったら、こう生きるしかないと幼い頃から思っていた。どこかでなんとなく、違うこともできるようにも思いつつ、自分の身体を良く知る人たちに病院の中に居るべき人だと言われ続けたので、そういうことが良いことなのだと思ってきた。しかし、ある出会いから、病院を飛び出すことになる。そして、Rさんは病院を出たら「生きている実感を感じる」と話している。病院を出るときに、怖かったことは自分の中の医療依存だったと言う。何もかも医療側が考えるよいことが、最上のことだと思っていたのに、それに反することをするということは非常に恐ろしいことに思っていたようだ。そして、病院側に「これから病院を出たときに、命の責任は誰が取るの?」と言われて戸惑う。B事業体は医療側に「一生面倒を見れますか?」「命の責任はとれますか?」と聞かれてきた。それはできないといえば「無責任だ」と責められた。障害者の「命の責任」を専門家たちが追及することで、誰も彼らに関わりたくなくなる。関わったら「命の責任者」になりかねないからだ。通りすがりのたまたま知り合った人でさえ、その命の責任問題をぶつけられかねない。B事業体では筋ジストロフィーの人を紹介するといっただけで、「そういう人に関わるのはかなり覚悟が居るから」「専門的な人がやったほうがいいわよ」と近所の人に断られたことがある。通りすがりの人間がだれかと人間の関係をたまたま結ぶという、そういう出会いを全てつぶしてしまう。 言うまでも無いが、命の責任は本人以外に誰も取れない。本人が考える生き方、ありたい「生」はそして「死」は本人に以上に誰かが本人にとってよいことを判断できない。そして、その追求の結果の命の責任は本人しかとり得ないのだ。「命の責任追及」は全く間違った専門家の支援である。 ② 制度を超える支援・関係性の保障 A事業体、B事業体ともに、制度の枠組みの外へと支援の視点を広げることによって、利用者の個別のニーズに答え、真の意味での自立支援の可能性を追求している。だからといってA事業体、B事業体ともに、報酬単価を引き上げるということを願ってはいない。それ以上に、福祉全体の考え方や枠組みの転換の必要性を訴えているのである。近年<公><共><私>の支援ということが言われるが、日本には開かれた公共意識のある<共>の関係性が弱い。近年NPO等の制度ができたものの、NPO法人であろうとなかろうと、制度の枠組み、補助金の枠組みを 超えて、社会的使命を追求していく姿勢が必要なのではないか。またそういった姿勢をもつ運動団体や事業体の支援を活性化し、応援することが、<公>の使命ではないかと考えている。 また、当事者の視点に立って考えたとき、制度の枠組みを超えた支援の中には、<専門家><支援者>との関係ではなく、あたりまえの人―人、人―環境との関係がある。その関係ができるには、<病院>や<福祉施設>という場所を出て行くこと、その場所の性格から逃れることが必要である。逃れたところで彼らが発言すること、それは開かれた公共意識をもった<共>の関係を作り上げるために大きな力になる。B事業体で働くヘルパーの子どもが、R氏とかかわった中で、夏休みの宿題の作文に「福祉について」というテーマで作文を書いた。病院で の暮らしのこと、今の暮らしで苦労していることなど一通りまとめた最後に、感想がかかれていた。その中に「Rさんが普通の女性であるということに、ぼくはほっとしました・・・・・(略)・・・・・」無垢な子どもであっても、筋ジストロフィーの患者が「あたりまえにおしゃれをしたい」とか「ショッピングがしたい」など語ることに衝撃をうけているということは、これは大人の世界や<福祉(=専門家)>の世界が作り上げた障害者の構造化された「生」がそこにあるということを浮き彫りにしている。一方で彼女と語り、彼女を知る中で、<ほっとしていく・・・>関係が、これから未来の支援者を作り上げる、一端になるのではないかと考えている。 [1] 一時介護助成制度は、千葉県東葛飾地域で展開した市町村単独の制度。あらかじめ登録された事業所のサービス利用料の一部を市町村が助成するというもの。助成金を受け取るためには個人申請を基本とし、各市によって限度額もさまざまであった。 [2] 重度訪問介護 障害者自立支援法第5条5の訪問系サービスの一種。「この法律において『重度訪問介護』とは、重度の肢体不自由者であって常時介護を要する障害者につき、居宅における入浴、排泄または食事の介護その他の厚生労働省令で定める便宜及び外出時における移動中の介護を総合的に供与することを言う」長時間の見守り介護を含めた包括的な介護である。単価が非常に低い。一番低い金額では1200円程度になる。
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