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障害学会第11回大会(2014年度)発表要旨


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高森 明 (こうもり あきら) 無所属

■報告題目

魔女と障害者-医学的本質主義を超えて-

■報告キーワード

■報告要旨

 報告者は医学的には神経的発達障害に分類されている。神経的発達障害が目に見えにくい心身の機能不全とされていることもあるのだろう。報告者が当事者(障害学で言えば障害者)という立場で発言すると、以下のような異議及び抗議表明を受けることが少なからずあった。

「一体、お前のどこが障害者だと言うのだ!」
「お前みたいな奴が障害者と名乗るな!」

 上記の異議および抗議には、報告者及び近い状況にある者が

① 障害者と名乗ることが妥当なのか?
② 〈私たち〉(=障害者)の一員と言えるのか?
③ 障害学の主体となりうるのか?
④ 障害学の考察対象になりうるのか?

 といった一連の問題提起が含まれているように思える。もちろん、報告者は自らが問題なく障害者の一員であり、障害学の主体になりうると自己正当化するつもりはない。他方、①~④の問題提起がなされる場合に「障害者とは何か」という議論が十分に深まっていかなかったことを残念に感じていた。本報告では、④障害学の考察対象になりうるのかという問題提起を切り口に、「障害者とは何か」という議論に一石を投じてみようと思う。

 意見の対立している論者たちの間で、実は同じ前提が共有されていたことはよくある。発達障害者は障害者なのかという議論が引き起こされた時、障害者だという立場に立つ者も、障害者ではないという立場に立つ者も、医学的本質主義を前提にした議論を展開していることが少なからずあった。医学的本質主義に立脚すれば、医学的に見て心身の損傷、機能不全が明らかな者のみが障害者であり、障害学の考察対象としてふさわしいことになる。発達障害者は障害者だという立場に立つ論者は心身の損傷、機能不全の範囲を広く捉え、障害者ではないという立場に立つ論者は狭く捉えていた。両者の違いはそれだけである。

 しかし、医学的本質主義は障害学に無批判に取り入れてもよい前提なのだろうか。障害学が医療モデルを乗り越えることを志向する学問だとするならば、両者の議論は障害学の方向性からは逆行している。医学的本質主義を持ち出さなければ考察の対象である障害者の範囲を規定できないということであれば、障害学は医療モデルなしには成り立たなくなってしまうことになるからである。

 この問題に対して、報告者は医学的本質主義に立脚した考察対象の設定を斥け、関係的概念に立脚した考察対象の設定を行うことを提唱する。

 関係的概念に立脚した考察対象の設定とはどのようなものだろうか。魔女及び魔女狩りの研究を例に考えてみよう。魔女を例にしたのは、発達障害者も魔女もその時代、文化、集団の中で作り出された関係的概念であるという側面が強いからである。

 魔女および魔女狩りは現在でも歴史社会学などで考察対象となることがある。しかし、現在の魔女および魔女狩りを研究している研究者の中で、魔女狩りの推進者たちがイメージしたような魔女が実在した、あるいは魔法を使える魔女が実在したと信じている者はほぼ皆無であろう。しかし、魔女狩りでイメージされていた魔女が実在しなかったからと言って、魔女狩りの研究が成り立たなくなる訳ではない。

 魔女が実在しなかったとしても、集団と中から魔女と見なされ処刑された犠牲者がいたという事実は残る。そして、犠牲者はどのような基準で選ばれたのか、集団の中でどのような地位に置かれていた人物だったのかを明らかにすることは研究上無意味ではないだろう。さらに、集団はなぜ魔女を作り出す必要があったのか、魔女狩りの推進者たちはどのような人々だったのか、どのような魔女のイメージを抱いていたのか、どのような言説が流布していたのか、どのような行動原理に基づいてどのような取り組みを行っていたのかを考察することは十分に可能である。

 発達障害者についても同様のことが言える。仮に発達障害という心身の機能不全が虚構だったとしても、ある時代、集団の中で発達障害と医学的に診断された人がいるという事実は残る。さらに発達障害という心身の機能不全が実在すると信じて、様々な取り組みをした人々がいるという事実も残る。

 そして、なぜ集団は発達障害というカテゴリーを必要としたのか、どのような人が発達障害者というカテゴリーに分類されたのか、発達障害と診断された人々は集団の中でどのような境遇に置かれたのか、発達障害についての取り組みは誰がどのような行動原理に基づき推進したのかを考察することも十分可能である。現代的なテーマなので、問題を解決するためには政治的、社会的にどのような取り組みをすればよいのかを考察することにも意味はあるだろう。

 虚構かもしれないということは、考察対象にならないということを意味する訳ではない。虚構かもしれないものがどのように人々の思考、行動に影響を与えていたのかもまた考察対象となるのである。



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障害学会第11回大会(2014年度)