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障害学会第11回大会(2014年度)発表要旨


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桐原 尚之 (きりはら なおゆき) 立命館大学大学院・日本学術振興会

■報告題目

実用性のあるディスアビリティ概念構築再考――解消必要性による〈抵抗〉と〈制度〉の二元論批判

■報告キーワード

■報告要旨

 今日、障害学に求められていることの一つには、障害者運動との連携の在り方と現実社会を変えるような知を集積していくことであろう。そのことは、川島聡と星加良司が「運動との距離という論点」(川島・星加 2013: 5)を障害学の課題として挙げていること、東俊裕が「理論の生成時において運動的な基盤を有しなかった日本の障害学は、その後も障害者運動との直接的な関わり合いが少ない」(東 2011: 100)とし、また、障害者運動側にフィードバックされていない障害学の知の在り様に改善を求めている(東 2011: 101-102)ことからも自明といえる。
 こうした問題意識に立って川島聡は、従来の障害学は政策に弱かったとし、障害学の課題の一つは社会モデルを上手に用いて政策を提示することだとしている。そして、従来の障害学を杉野昭博(2007: 1)の言葉を借りて〈抵抗の障害学〉とカテゴライズし、いまだ手付かずの〈制度の障害学〉の構築が必要だと提起している(川島 2013: 102-103; 106)。
 確かに、プラグマティズム――ディスアビリティを解消しようとすること――は、運動至上主義の視角から最も擁護されるべき視点の一つである。しかし、そもそもディスアビリティを解消するための障害学の在り様として〈抵抗の障害学〉と〈制度の障害学〉の二元論的パースペクティブが妥当であるのか。

 川島は、〈抵抗の障害学〉と〈制度の障害学〉の二元論的パースペクティブを示したわけだが、このパースペクティブは、いかなる枠組みに依拠して提起されたのか。ところで、マイケル・オリバーは、『障害の政治』の「後記 風は吹いている」の中で、近い将来ディスアビリティを構築してきた資本主義社会がその域を超える可能性はなさそうだが、限定的な見方をすれば、ディスアビリティの物質的な条件や社会的関係を改善することはできると説明している(Oliver 1990=2006)。このオリバーの説明には、川島が提起したパースペクティブと共通する部分がある。それは、〈解決し難き問題〉と〈ある程度解決できる問題〉という現実場面におけるディスアビリティの解消可能性を軸として分類されている点である。このことから川島による〈抵抗の障害学〉と〈制度の障害学〉のパースペクティブは、現実場面におけるディスアビリティの解消可能性に依拠して提起されたものであるといえる。

 星加は、「現実の社会において解消可能なものしかディスアビリティとして把握でき」ないため、「実際の社会の解消可能によってディスアビリティを特定しようとする議論は、必ずしも適当ではない」という(星加 2007: 54)。この星加の主張は、ディスアビリティの概念化にあたって「解消可能性要求」を挙げ、ディスアビリティ概念が論理的に解消可能性を含んでいることと、現実社会において解消可能であることを分けたうえで、前者をディスアビリティ社会理論の対象とした帰結である。
 だが、この主張の前提には、論理的に不自然な点がある。確かに「ディスアビリティは解消可能である」ことは、「解消可能であるのがディスアビリティである」ことと矛盾しない。しかし、星加の命題は「ディスアビリティは解消されるべきである」(星加 2007: 24)であり、「解消されるべきことがディスアビリティである」という説明になる。ところが、星加は命題である「ディスアビリティは解消されるべきである」を「解消可能であるのがディスアビリティである」と対応させている。この理解のまま命題を維持すると、ディスアビリティを不本意なかたちで限定的なものにしてしまう。そのため、星加は「現実社会における解消」と「概念の論理的に解消可能性の含有」とに分けて考察することにしたのである。この点は、オリバーや川島の現実社会における変革に主眼を置いた分類を許容するものである。
 だが、そもそも星加の命題からは「解消されるべきことがディスアビリティである」が論理的に導き出されるため、ディスアビリティは、現実社会において解消されるべきである事柄として、現実社会の場面に即した社会理論化をしていくことも可能となるはずである。

 このことによって解消可能性要求は、解消必要性という概念に改められる。すると、今後は責任帰属性によるディスアビリティ解消法措定の枠組みにおいて、何を尺度として解消が必要であるのか、何を尺度・方法として社会(公的/私的)の責任に帰属していくのか、というメルクマールの設定が課題とされる。
 この時点で解消可能性に依拠した「連字符障害学」は、不要となる。政策改変のための議論に突出させるのではなく、あくまで障害学会の中で報告・提起される問題は、政策場面にしかり、文学世界にしかり、経験や規範・内面世界にしかり、等しく現状を不服に捉え、ある基準に従って解消の必要があるという点で共通していることこそ重要なのである。

参考文献
Oliver, Michael,1990,The Politics of Disablement,Macmillan,London.(=2006,三島亜紀子・山岸倫子・山森亮・横須賀俊司訳,『障害の政治――イギリス障害学の原点』明石書店.)
川島聡・星加良司,2013,「障害学の『リハビリテーション』という企て」川越敏司・川島聡・星加良司編『障害学のリハビリテーション──障害の社会モデルその射程と限界』生活書院.
川島聡,2013,「権利条約時代の障害学──社会モデルを活かし、越える」川越敏司・川島聡・星加良司編『障害学のリハビリテーション──障害の社会モデルその射程と限界』生活書院.
杉野昭博,2007,『障害学――理論形成と射程』東京大学出版会.
星加良司,2007,『障害とは何か――ディスアビリティの社会理論に向けて』生活書院.
――――,2013,「社会モデルの分岐点――実践性はもろ刃の剣」川越敏司・川島聡・星加良司編『障害学のリハビリテーション──障害の社会モデルその射程と限界』生活書院.



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