>HOME

「倫理学は障害学に届きうるのか−リベラリズムとディスアビリティ」

柏葉武秀(北海道大学)
障害学会第5回大会 於:熊本学園大学

◆要旨

障害者運動から生み出されてきた障害学においては、障害者の当事者性が理論的な前提となっている。この前提は日本の障害学研究にとってもひろく受け入れられていると思われる。だが、道徳的善悪の哲学的分析を使命とする倫理学、とりわけ分析的伝統に立脚する現代の倫理学にとって障害者の当事者性はひとつの躓きの石であり続けてきた。たとえばロールズに代表されるリベラリズムは障害者をその理論的枠組みから排除してきたかせいぜい二次的な役割のみを押しつけてきたと批判されている。本報告では、このリベラリズムが障害者を理論的に排除してきたという「通説」を検討する。この趣旨のロールズ批判については、日本ではセンのそれがすでに紹介されている。そこで、リベラリズム陣営内部で戦わされた論戦を、ロールズとセンの応酬を振り返りながら、障害者は正義にかなった社会の主体だともっとも積極的に主張するヌスバウムの議論を参照していきたい。

ロールズは大著『正義論』でもっとも不遇な人に手厚い財の分配を命じる「格差原理」を、正義の原理の一つに据えている。この平等に分配されるとされる「社会的基本財」(自由と機会、所得と富など)に対して同じリベラリズム陣営で手厳しく批判したのがセンである。センは「何の平等か?」において、格差原理が身体障害者に対して適切な配分を提供できないと論じている。格差原理では、社会的基本財が配分されるだけなので、財から得られる満足の面でも健常者に劣っている身体障害者に対する配慮を備えていないというのである。たとえば、車椅子が必要な身体障害者を考えてみる。格差原理は、身体障害者が障害を負っているからといって、特別な分配を与えてくれない。なぜなら、身体障害者には誰にでも等しく分け与えられるべき社会的基本財ならば、想定上すでに十分所有しているからである。ロールズに欠落しているのは、分配された財でもって、各人が何を実現できるか、個々人によって違いのあるニーズは何かという観点である。

ロールズは一度は障害者の問題を「難しい事例」として自らの理論的枠組では除外されかねないと認めざるをえなかった。しかし、遺稿となった『公正としての正義再説』では、社会的基本財の平等はセンの批判を免れていると再反論を試みている。

ロールズによれば、公正としての正義で前提とされるのは自由で平等な市民である。この市民は正義感覚への能力と善の構想へ能力という二つの能力を備えており、全生涯にわたって社会的協働に携わる。この市民の最低限不可欠なニーズは十分に似通っているので、基本財をニーズの指数にしても取りこぼしはない。しかも、ロールズによれば、基本財はセンが批判する以上に柔軟な指数であって、病気や事故が引き起こすニーズの違い対応できる。というのも、市民は全生涯を通じて社会的に協働すると想定されているので、一定期間社会での役割を果たせないときには適切な補償をうけるべく正義の原理が命じるからである。したがって、基本財を平等の指数とするならば、身体障害者に適切な配慮をしていないとの批判は的外れだというのである。

このようなロールズの反論はどこまで妥当であろうか。社会的基本材のリストに障害者への配慮が正面から組み込まれたことは、一定の改善であるかもしれない。しかしながら、ロールズとセンとの論争において障害者は常に財の配分を受けるだけの受動的な立場に追いやられてはいないだろうか。論争の舞台では、配分原理を選択する主体としての地位が障害者からあらかじめ剥奪されてはいないだろうか。障害者は財の分配を待つだけなのか。だとすると、財の量がある事情で激減したとき、分配の限界事例へと障害者が押し込まれる危険性はないのか。あたかも自己意識あるいは何らかの利益の有無によって中絶の許容可能性が論じられるとき、障害新生児がひとつの限界事例となるように。それは障害者に政治レヴェルである種のスティグマを押すこととどれほど異なっているだろうか。問われるべき焦点なのは、配分される財の指標だけではなく、障害者の政治的主体性にあるのだと思われる。

以上の懸念を主題的に論じているのはセンの盟友ヌスバウムである。ヌスバウムは『正義のフロンティア』において、ロールズは依然として障害を偶然で例外的な事象としてしか把握していないと指摘する。その証拠にロールズは、深刻な障害をもつために社会的協働に決して貢献しえない人々を「極端なケース」として棚上げしている。ヌスバウムによれば、私たちは幼子のときには保護者から世話をされ、老いては家族や社会福祉制度の援助を頼みに生きている。障害者を恒常的なケアを必要とする人々だと規定するのがたとえ妥当だとしても、障害と健常の区別はそれほど自明ではない。ヌスバウムはリベラリズムが前提としてきた人格像に歪みを指摘し、他者の善を自らの善として共有するアリストテレス由来の社会的動物としての人格こそがリベラリズムにふさわしいと主張する。ヌスバウムの構想においては、障害者はリベラルな社会の正統な主人公なのである。

本報告では以上の論争をふまえながら、正義にかなった社会に参画する主体として障害者を位置づける可能性を、ヌスバウムのロールズ批判を主たる材料として探っていきたい。ヌスバウムはセンと同様のケイパビリティ・アプローチを理論の骨格としながら、ケアの倫理と大きく重なる議論を展開している。そのことはつまり、障害学の前提にまでケアの倫理を含めた倫理学の射程が及びうるかを確かめる作業となる。


UP:20081006


>HOME