障害学会第11期理事会

第11期理事会 (任期:2023年9月から2年間)

会  長  石川准(静岡県立大学名誉教授)
事務局長  廣野俊輔(同志社大学)

市野川容孝(東京大学)
伊東香純(中央大学PD研究員)
岡部耕典(早稲田大学)
川島聡(放送大学)
熊谷晋一郎(東京大学)
瀬山紀子(埼玉大学)
田中恵美子(東京家政大学)
長瀬修(立命館大学)
西倉実季(東京理科大学)
深田耕一郎(女子栄養大学)
堀田義太郎(東京理科大学)
矢吹康夫(中京大学)
山下幸子(淑徳大学)

会計監査  増田洋介、與那嶺司

合理的配慮等に関するガイドライン1.0

合理的配慮等に関するガイドライン1.0

1.目的

本ガイドラインは、障害学会(以下、本学会という)の事業活動における障害のある会員及び非会員(以下、障害者という)に対する差別の解消に関し、合理的配慮等の必要な事項を定めることにより、本学会会則第2条に定める本学会の目的の達成に資することを目的とする。

2.障害者差別の解消

本学会は、障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律(平成25年法律第65号)その他関係法令を遵守し、本学会の事業活動において障害者差別を行わず、障害者差別の解消を推進する。障害者差別とは、障害者に対して不当な差別的取扱いをすることと合理的配慮を行わないことをいう。

3.不当な差別的取扱い

不当な差別的取扱いとは、本学会が障害を理由に正当な理由なく障害者を非障害者より不利に扱うことをいう。正当な理由に相当するのは、障害者を不利に扱うことが客観的に見て正当な目的の下に行われたものであり、その目的に照らしてやむを得ないと言える場合である。本学会は、正当な理由があると判断した場合には、障害者にその理由を丁寧に説明し、理解を得るよう努める。

4.合理的配慮

本学会は、個々の場面において特定の障害者から現に社会的障壁の除去を必要としている旨の意思の表明があった場合に、建設的対話を通じて合理的配慮を行う。合理的配慮とは、本学会が特定の障害者個人のニーズに応じて過重な負担のない範囲で行う社会的障壁(物理面、情報コミュニケーション面、制度面等の障壁)の除去であって、障害者の意向を十分に尊重し、非障害者との機会平等を実現し、本学会の本来的業務に付随し、かつ、本学会の事業活動の本質的部分を変更しないものをいう。社会的障壁の除去が本学会にとって過重な負担に当たるか否かは、当該除去の事業活動への影響の程度、当該除去の実現可能性の程度、当該除去の費用・負担の程度、及び本学会の事業規模・財政状況を総合的に考慮に入れて、具体的・客観的に判断する。本学会は、過重な負担に当たると判断した場合は、障害者に丁寧にその理由を説明し、理解を得るよう努める。

5.事前的改善措置(環境の整備)

本学会は、事前的改善措置を積極的に講じる。事前的改善措置とは、本学会があらかじめ不特定多数の障害者を主な対象として社会的障壁を除去しておくことをいう。

6.研究大会及び総会

本学会は、研究大会及び総会の開催に当たり、開催校と協力して事前的改善措置を講じるとともに合理的配慮を行う。本学会は、手話通訳及び文字通訳を確保し、休憩室を準備し、障害者の支援者の研究大会及び総会への参加を無料とする。また、本学会は研究大会及び総会の資料のアクセシビリティを確保する。

7.理事会及び理事選挙

本学会は、理事会の開催及び理事選挙の実施に当たり、事前的改善措置を講じるとともに合理的配慮を行う。本学会は、理事会を対面型で開催する場合には、障害のある理事の支援者に交通費及び宿泊費が必要となるときはこれらを支給するとともに、理事の希望によりオンライン参加を認める。また、本学会は理事会及び理事選挙の資料のアクセシビリティを確保する。

8.学会誌

本学会は、出版社と協力して事前的改善措置を講じるとともに合理的配慮を行う。本学会は、障害者が自身に配布された学会誌又は自身が購入した学会誌を読む際の社会的障壁の除去のために必要かつ適切な場合には、当該障害者にテキストデータを無償で提供する。

9.ホームページ

本学会は、ワールド・ワイド・ウェブ・コンソーシアム(W3C)のウェブコンテンツ・アクセシビリティ・ガイドラインに準拠して、本学会のホームページhttp://www.jsds.org/ の情報を適切に構造化して表示するなど当該ホームページのアクセシビリティを確保する。

学会からの一斉メール配信について

障害学会は以下の情報を障害学会会員の登録アドレスに一斉配信します。

①障害学会の公式の告知(役員、学会誌、大会、会費納入、選挙等)
②会員が書いた図書、論文、学会報告等の研究情報
③障害学にかかわる研究会や催し物等

メールマガジン等の定期刊行物は配信しません。
その他商業利用など会員間の情報共有として適切では
ないと学会が判断するものについては配信しないことが
ありますのでご承知おきください。

②③については学会員からの情報提供を歓迎します。
ご自身の業績紹介の機会としてぜひご活用ください。

依頼方法

配信を希望する内容の本文(テキストデータ)をメール
本文に書き、
jsds_info「あっと」googlegroups.com
(送信の際は「あっと」を@に変えてください) まで
お送りください。
依頼受領後原則として日曜祭日を除く5日以内に配信します。

・掲載される情報は学会会員が提供するものに限ります。
(情報提供時に会員名を明記してください)
・会員の著書や論文の紹介は原則として著者自身が行うことを
強く推奨します。
・基本的に提供されたテキストデータをそのまま配信しますが、
広報担当者のほうで文面の一部を調整することがあります。

注意事項

メールマガジン等の定期刊行物は配信しません。
その他商業利用など会員間の情報共有として適切では
ないと学会が判断するものについては配信しないことが
ありますのでご承知おきください。

『障害学研究』21号 自由投稿論文の募集

障害学会会員の皆様

第21号の投稿論文の募集が遅れ、申し訳ありませんでしたが、学会誌『障害学研究』第21号(2024年9月刊行予定)の自由投稿論文を、下記の要領で募集いたしますので、ふるってご投稿ください。
なお、第21号の【エッセイ】の〆切は、エッセイ選者の「求めるエッセイ」とともに、8月末あたりにあらためて正式にお知らせしますが、2023年11月末あたりを予定しています。

なお、20号(2024年刊行予定)は、障害学会20周年記念特集号となり、自由投稿論文とエッセイの募集はありません。

・本文末の「投稿規程」と「執筆要項」を熟読の上、ご投稿ください。
・図表を添付する際の形式や執筆フォームなど、よくご確認の上、ご投稿ください。

■分 量:20,000字以内 (詳しくは末尾の「執筆要項」を参照)
■締 切:2023年9月30日(土)
■送付先:yukara「あっと」akashi.co.jp
(送信の際は「あっと」を@に変えてください)

【担当者】 明石書店 辛島悠さん

【備考】
1.送付にあたっては、
1)原稿は添付ファイルとし、
2)メール本文には投稿者の氏名と所属、論文タイトルを記し、
3)メールの件名を、「障害学研究第21号 投稿論文」としてください。
受領しましたら、こちらから確認のメールをお送りいたします。万が一、送信後3日を経ても確認メールが届かない場合は、事故の可能性がありますので、恐れ入りますが、その旨を記した上、再度原稿をお送りください。

2.掲載にあたって、会員名簿にご登録のお名前とは別のお名前(ペンネーム等)をご使用になる場合は、そのペンネーム等に加えて、学会名簿にある名前を原稿に併記して、ご投稿ください(投稿資格の有無を確認する際に必要になります)。加えて、どちらの名前での掲載を希望するかも明記してください。

3.投稿後、査読(最大2回)をおこなって、掲載の可否を決定します。

4.論文投稿に不慣れな方は、研究論文執筆に関する一般的な留意点について、研究経験の豊富な人のアドバイスを受けたり、学術論文に関する一般的なルールを参考にしてください。

【問い合わせ先】
yukara「あっと」akashi.co.jp(送信の際は「あっと」を@に変えてください)

【担当者】
明石書店 辛島悠さん

障害学会・第10期編集委員会
委員長 堀田義太郎

◇ 『障害学研究』自由投稿論文・投稿規程:
http://jsds-org.sakura.ne.jp/2017/10/30/%e3%80%8e%e9%9a%9c%e5%ae%b3%e5%ad%a6%e7%a0%94%e7%a9%b6%e3%80%8f%e8%87%aa%e7%94%b1%e6%8a%95%e7%a8%bf%e8%ab%96%e6%96%87%e3%83%bb%e6%8a%95%e7%a8%bf%e8%a6%8f%e7%a8%8b/

◇ 『障害学研究』自由投稿論文・執筆要項:
http://jsds-org.sakura.ne.jp/2017/10/30/%e3%80%8e%e9%9a%9c%e5%ae%b3%e5%ad%a6%e7%a0%94%e7%a9%b6%e3%80%8f%e8%87%aa%e7%94%b1%e6%8a%95%e7%a8%bf%e8%ab%96%e6%96%87%e3%83%bb%e5%9f%b7%e7%ad%86%e8%a6%81%e9%a0%85/

『障害学研究』19号 エッセイ募集

学会誌『障害学研究』第19号(2023年9月刊行予定)のエッセイを、下記の要領で募集いたしますので、ふるってご投稿ください。

※ 当初予定よりも募集時期が大幅に遅れてしまい申し訳ありません。積極的な応募をお待ちしています。

■ 分量:1200文字以上 10000文字以内(詳しくは末尾の審査規定を参照)
■ 締切:2023年5月31日
■ 送付先:yukara「あっと」akashi.co.jp
(送信の際は「あっと」を@に変えてください)

【担当者】 明石書店 辛島悠さん

【備考】
1.送付にあたっては、

1)原稿は添付ファイルとし、
2)メール本文には投稿者の氏名と所属、エッセイタイトルを記し、
3)メールの件名を、「障害学研究第19号 投稿論文」としてください。
受領しましたら、こちらから確認のメールをお送りいたします。万が一、送信後3日を経ても確認メールが届かない場合は、事故の可能性がありますので、恐れ入りますが、その旨を記した上、再度原稿をお送りください。

2.掲載にあたって、会員名簿にご登録のお名前とは別のお名前(ペンネーム等)をご使用になる場合は、そのペンネーム等に加えて、学会名簿にある名前を原稿に併記して、ご投稿ください(投稿資格の有無を確認する際に必要になります)。加えて、どちらの名前での掲載を希望するかも明記してください。

障害学会・第9期編集委員会
委員長 堀田義太郎

『障害学会』エッセイ審査規定

19号 エッセイ選者・プロフィール・求めるエッセイを掲載します。

◆ 伊是名夏子(いぜな・なつこ)さん/コラムニスト。著書に『ママは身長100cm』(ハフポストブックス)。
◇ あなたが悩んできたことを、驚いたこと、悔しかったこと、傷ついたことのもやもやを、まずは言葉に、文にしてみてください。飾らない、まっすぐな思いが、意外にも多くの人の気づき、共感になります。一番よくないのは自分の感じたことを、これくらいのことは仕方ない、とないものにしてしまうこと。悩みながらも書くことは、自分を取り戻し、力を得ることでもあります。あなたの悩んだ経験が、書くことで、あなたと誰かの財産になります。時間はかかり、苦しいこともあると思いますが、あきらめずに書いてみて下さい。

◆ 川口有美子(かわぐち・ゆみこ)さん/アドボカシー、NPO法人ALS/MNDサポートセンターさくら会副理事長。重度の身体障害をもつ人々の在宅療養支援に携わる。著書に『逝かない身体』(医学書院)、『末期を超えて』(青土社)など。
◇ 論文にはできない/したくない、けれど世界に知らせたい主張があるでしょう。あなたのそんな絶対的なオピニオンを、譲れない思いを、自由に存分に書いてください。お行儀は問いません。あなたの心の叫びが伝わる文章を期待してます。

◆ 齋藤陽道(さいとう・はるみち)さん/写真家、文筆業。著書に『異なり記念日』医学書院、『声めぐり』晶文社、『育児まんが日記 せかいはことば』ナナロク社など。
◇ 私ではない誰かが書いた物語や番組に浸かっていると、無意識に、そうした言葉をあてがってしまい、自分自身の本当の感情を見失ってしまうことがあります。注意深く、そうした言葉を注意深くはぶいて、私の感動、私の悲しみ、私のこの感情を、大事にした、正直な、切実なことばを、書いてみてください。それはきっと、みんなにとっての宝です。

◆ 杉野昭博(すぎの・あきひろ)さん/元大学教員(関西大学・関西学院大学・東京都立大学)。著編著に、『スポーツ障害から生き方を学ぶ』生活書院、『よくわかる障害学』ミネルヴァ書房など。
◇ 障害学研究のエッセイコーナーは、会員からの提案を受けて本誌創刊時に作られたもので、当学会独自の取り組みとして、初代編集委員長の倉本智明さんや故斉藤龍一郎さん(アフリカ日本協議会・障害学会理事)をはじめ、歴代選者のみなさんのご尽力で20年間継続してきました。「学術論文とは異なる基準で著述業のプロの方に選者を依頼する」という方式も、理事会や総会での議論を経て定着したものです。私自身はこの選者としての資格は不十分ですが、これまでの経緯を知る者として選者を引き受けさせていただきました。家族や支援者も含めて「当事者」としての立場でしか知り得ない経験を多くの方に伝えられる文章を期待します。

障害学会第20回大会のお知らせ

障害学会第20回大会を下記の要領で開催いたします。
今年度は、障害学会設立20周年の記念大会と位置づけ、対面での2日開催を予定しています。
みなさまのご参加をお待ちしております。

日 程:2023年9月16日(土)、17日(日)

会 場:東京大学駒場第2キャンパス(東京都目黒区駒場4丁目6番1号)

大会長:熊谷晋一郎(東京大学先端科学技術研究センター)

形 態:対面(基調講演とシンポジウムのみオンライン配信を予定)

自由報告とポスター報告を対面形式で実施します。
募集の詳細は、後日、会員メールとHPでお知らせします。

障害学会第20回大会実行委員会

コロナ禍における調査――現地に行ってわかったオンラインインタビューの仕方

伊東香純(日本学術振興会特別研究員PD/中央大学)

 『障害学研究』の最新刊に、「障害と開発」分野で先駆的な研究をしてこられた森壮也さんが拙著『精神障害者のグローバルな草の根運動』(伊東2021)の書評(森2023)を書いてくださり、私もリプライ(伊東2023)を書きました。拙著は、2020年9月に立命館大学に提出した博士論文が基になっています。博士論文では、2016年度にニュージーランド、2018年度と19年度に欧州8か国(うち2か国はオンライン)で、インタビュー調査や文書史料収集をおこない、精神障害者の世界組織の社会運動の歴史を描きました。2019年度の終わりからコロナ禍の世界が始まったことを考えると、私は非常に運がよかったと思います。博士論文の審査は、口頭試問(2020年4月)も公聴会(同年7月)もオンラインで実施されました。口頭試問の際、どうしたわけか指定されたミーティングルームに入れず、忙しい合間を縫って参集くださっている4名の審査員を5分ほどお待たせしてしまい、開始早々冷や汗をかいて謝るというハプニングもありました。
その後2021年度から現在の特別研究員(PD)に採用され、アフリカの精神障害者の社会運動の調査を始めました。このエッセイでは、1年目はオンライン、2年目はオフラインで実施した2年間の調査から、調査の仕方について私が学んだことをお話します。この研究プロジェクト応募当時(2020年5月頃)は、日本で最初の緊急事態宣言が発令された時期でした。海外渡航はできない状況でしたが、このような状況がこれほど長期に渡るとはまったく予想しておらず、博士論文が書けたら、フィールドワークを再開するぞと意気込んでいました。応募書類には、現地でのインタビューや史料収集を盛り込んだ研究計画を書きました。運よく研究員に採用されたものの、2021年度になっても海外渡航がほぼ不可能な状況は変わっていませんでした。このまま研究員の採用期間が終わってしまったらどうしようという焦りもあり、オンラインでインタビューをすることにしました。
欧州での調査でお世話になった方を頼ったり慣れないSNSを駆使したりして、2021年度は最終的に6名の方にインタビューにご協力いただけました。これは、私にとって予想を上回る成果でした。オンラインでのインタビューはコロナ禍前から経験していたので、現地の様子がわからなかったり信頼関係が築きにくかったりといったデメリットは始める前から予想していました。しかし、それらより私にとってはるかにデメリットだったのは、アフリカのネット回線の弱さです。10分以上お互いに音声が届かないことが、1回のインタビューで何度もあり、途切れた状態が30分以上続くこともありました。突然、音声が途切れると、私が日本でいくら大きな声で状況を伝えても相手には届きません。そして、聞こえていないのを知らずに、ずっと話し続けてくださっているのです。「Can you hear me?」を多いときには20回も繰り返して、やっと回線が復活すると、ひれ伏す気持ちでこの話の後から聞こえていなかったからもう一度話してほしいとお願いしました。二度も、時によっては三度も同じ話をしてもらうのは非常に忍びなく、話のテンポも悪くなるし、私は苛立つと同時に、インタビュイーが腹を立てはいないかとびくびくしていました。時差のため、ほとんどのインタビューは、日本時間の夜から深夜におこないました。実際に話を聞けていた時間は1時間程度でも、オンラインに接続して緊張していた時間は2時間近くになる場合が多く、へとへとになりながらオンラインのスイッチを切った深夜を覚えています。しかし、インタビュイーの方は、画面をオフしていたので実際のところはよくわかりませんが、私の心配とは裏腹に嫌な顔一つせず、熱心にインタビューに応じてくれました。コロナ禍で急増したオンラインのイベントでは、機材トラブルで数分間でも時間がロスすると主催者が謝ったり、トラブルを未然に防ぐためのシミュレーションを事前におこなったりといった対応を経験してきました。この経験と照らすと、私はインタビュイーの人たちがトラブルに落ち着いて非常に寛容に対応してくれたことが、個人の性格では説明しきれないように思えて不思議でした。
この寛容な対応は、2022年度、アフリカに来てすぐ腑に落ちました。私がアフリカでの調査で最初に訪れたのは、ウガンダの首都カンパラです。最初のインタビューは、カンパラからさらに東に移動した、ケニアの近くのムバレという地域でおこないました。ウガンダでよく使われる交通手段の1つにマタツと呼ばれる10人乗りくらいのミニバスがあります。歩いていると、乗れ乗れとたびたび車内から声を掛けられました。最初のインタビューの日、私の泊まっていたホテルからインタビュイーのご自宅まで、ホテルの近くに住んでおられるインタビュイーのご家族のジェーンさんが送り迎えしてくださいました。行きは、スーパーハイヤー(日本でいうタクシー)で、30分ほどかけてインタビュイーのお宅まで行きました。用事が済んで帰ることになり、帰りはマタツで行こうと誘ってもらいました。沿道に出ると間もなくマタツがやってきました。そこで、私が乗ろうとすると、ジェーンさんは乗るのはまだだと言います。もう少し人が乗ってからでないと車内で長時間待つことになるというのです。そして、客引きをしていた乗務員に乗客が集まってから声を掛けてくれと言って、沿道で待つことになりました。待っていると近所の人が椅子を出してくれ、ソーダと呼ばれる炭酸飲料を買ってきてくれ、スコーンとパンの間のようなお菓子を出してくれて、煮干しを仕分けたり菜っ葉を刻んで売ったりしているのを見ながらおしゃべりしました。その間、マタツは、300メートルほどを行ったり来たりしながら、お客を集めていました。30分以上経って、もう待っても人は集まらないということになったようで、私たちはマタツに乗り込みました。やっと帰れるかと思ったら、1キロほど走って人家が多いところにくるとまた客引きです。30分以上同じ道を行ったり来たりして、乗れ乗れと声を掛けます。そこでようやく座席が埋まり、市街地に向かって走り出しました。マタツを降りたときには、帰ろうかと言い出してから2時間以上が経過していました。驚いたのは、マタツは時間が来たらではなく、席が埋まったら発車するのだと聞いたときです。

沿道に停められているマタツ (2022年8月20日ジンジャ(ウガンダ)のバス停にて筆者撮影)
ジェーンさんたちといっしょにマタツの乗客が集まるのを待っていたところ (2022年8月12日ムバレ(ウガンダ)にて筆者撮影)

翌朝、渡航してから最初の停電を経験しました。アフリカでは、よく停電が起きると事前に読んで知っていたので、これかと思いました。その日は、ジェーンさんに地元のお祭りを案内してもらうことになっていて、前日同様ジェーンさんがホテルまで迎えに来てくれました。私は、ボダボダと呼ばれるバイクタクシーで、ドライバーとジェーンさんの間にできるだけ身を薄くして挟まれながら、今朝の停電の話をしました。そうすると「そんなのこっちじゃよくあることだから、わざわざ話題にしないよ」と笑われました。なんだか恥ずかしい気持ちになりました。そのお祭りは、皆がお酒を飲んで騒ぐから慣れていない外国人を連れていって危険な目に遭わせては大変だとのジェーンの友人の助言により、その日は結局ジェーンさんのお宅にお邪魔して、1日を過ごしました。庭の果物や普段より品数を増やした家庭料理で厚いおもてなしを受けました。
コロナ禍の調査を通じて学んだことの1つは、現地に行けない時期にもできることは思った以上にたくさんあることです。もう1つは、現地に行けない時期の調査をより実りあるものにするために、行ける時には行くことが重要だということです。インタビューの内容に関してより適切な質問を考えたり解釈したりするためには、現地の暮らしを知ることが役に立ちます。さらにそれだけでなく、インタビューの外形的な実施方法を考える上でも、自文化との違いを知ることは重要でした。私は、オンラインでのインタビューに時間がかかってしまって申し訳なく不安に思っていましたが、時間の経過ではなく聞くべきことを聞けたらインタビューを終わりにしてよい、聞けるまではインタビューを続けてよかったのだと知ることになりました。

[文献]
伊東香純,2021,『精神障害者のグローバルな草の根運動――連帯の中の多様性』生活書院.
――――,2023,「書評へのリプライ」『障害学研究』18:360-365.
森壮也,2023,「書評/伊東香純著『精神障害者のグローバルな草の根運動――連帯の中の多様性』」『障害学研究』18:354-359.

ジュディ・ヒューマン:「私たちは、お互いから学ぶことができます」

長瀬修(立命館大学生存学研究所)

左はジュディ・ヒューマン、右は筆者。2018年8月21日、障害者の権利に関するサマースクールを開催中の国立アイルランド大学ゴールウェイ校にて。

ジュディ・ヒューマンと初めて会ったのは、1987年の日米障害協議会だった。秘書としてお仕えしていた八代英太参議院議員が同協議会のリーダーの一人であり、私自身は、その事務局を務めていた時だった。バークレイで開催され、エド・ロバーツも出席していた第2回会議だった。ホストはバークレイCIL所長のマイケル・ウィンターである。ちょうどADA(米国障害者法)へ向けての取り組みが進んでいる時代だった。ジュディ(正確にはジュディスだが、いつもジュディと呼ばれていた)は、ロバーツが所長を務める世界障害研究所(World Institute on Disability)の副所長だった。
強く印象に残っているのは、ジュディがジャスティン・ダートをはじめとする他の障害者リーダーと共に必死に取り組んだ成果として1990年にADAが成立後に会った時だった。日本での障害者差別禁止法の実現を求めて八代と言葉を交わしていたジュディは、急に私の顔を見て「あなたのような人の役割が重要です」と言ったのだった。
当時の私は、米国政府と契約関係にある機関における障害者差別禁止を規定し、ADAの先鞭をつけたリハビリテーション法504条の成立過程で議会スタッフが果たした役割について不勉強だった。そして、同条の実施を求めて、ジュディたちが連邦政府のビルを1か月近くも占拠したことも知らなかった。それでも、ジュディの言葉は心に強く残った。場所は覚えていないが、晴れた日の屋外だった。その光景は、まるで第三者として見ているかのように、脳裏に刻まれている。
その後の長年にわたる交流で学んだのは、ジュディの①インクルーシブなリーダーシップ、②国際的な視野、③障害者の権利推進のために自分のポストを最大限に活かす姿勢である。それぞれについて少し述べたい。
ジュディはインクルーシブなリーダーだった。障害者権利条約の交渉過程のサイドイベントをはじめとして、ジュディは壇上から、「折角、この会議に来たのだから、顔見知りばかりに声をかけるのではなく、知らない人にこそ、声をかけてください」といつも呼びかけていた。アメリカ手話(ASL)で壇上から、フロアにいるろう者に話しかける姿もよく見かけた。1977年に連邦政府のビルを占拠していた時も「手話通訳の準備が整うまでは会議を始めない、という方針」を貫いたのだった。(ジュディス・ヒューマン、クリスティン・ジョイナー著、曽田夏記訳『わたしが人間であるために』2021年、現代書館
http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN978-4-7684-3589-2.htm
ジュディは国際的な視野の持ち主だった。残念ながら時折、障害分野でも散見される米国中心主義=自国中心主義から自由だった。ADA成立以後の、「米国の障害者の状況はおそるべきもの」(第4回日米障害者協議会、1991年)や「米国には国民皆保険すらない」という言葉を思い出す。国際的な視野から、差別禁止や、アクセシビリティなど自国の長所を認める共に、自国の課題にも率直に向き合っているリーダーだった。そして自国中心主義と向き合うことは、例えば、障害者権利条約の審査でジュネーブに100人以上を送り出せる日本の市民社会にとっても重要な課題である。
ジュディには、障害者の権利を推進するために自分のポストを最大限に活かす姿勢があった。国際的な視点を買われて、ジュディが世界銀行で初めての障害と開発に関する顧問だった2003年である。当時勤務していた東京大学では、福島智の着任を機にバリアフリー推進の機運が盛り上がり、バリアフリー支援準備室が2002年10月に設置されたばかりだった。福島は同室の副室長であり、私は副室長補佐だった。さらに全学的な機運を高めるために、バリアフリーシンポジウムを企画する構想が生まれ、その基調講演者としてジュディを招く構想が浮かび上がった。しかし、米国の首都ワシントンから招聘する予算はなかった。そこで2003年6月にニューヨークの国連本部で開催された第2回国連障害者の権利条約特別委員会に出席した際に、ワシントンまで足を伸ばして世界銀行本部でジュディに面会した。基調講演をお願いすると、東大のみならず日本にとって重要なシンポだからと快諾だった。そして、率直にジュディと介助者の招聘予算が十分ないことを話すと、世界銀行の仕事で日本への出張予定があり、その予算で航空券はカバーできるから心配するなとまで言ってくれたのである。当日、定員が120名の東大本郷の山上会館2階大会議室は満席の盛況だった。当時の山上会館にはバリアフリートイレがなく、仮設トイレでしのぐという冷や汗の経験だったが、ジュディが「世界の高等教育とバリアフリー」をテーマとして力強い講演をしてくれた手ごたえは今も思い出せる。トイレの不備についてはユーモアに包みながらも、ずばりと「では来週までに作ったほうがいいでしょう」とし、「そのストレートな話しぶりは、参加者を強烈に引き込むものだった」と東大広報(1273号)は報じている。その後、東大のみならず他大学においても進展した高等教育と障害の取り組みの進展にもジュディは確かな足跡を残した。この不世出のリーダーが残した数知れない足跡の一コマだった。
ジュディの障害者の権利を推進するために自分のポストを最大限に活かす姿勢のもう一つの例を紹介しよう。ジュディがオバマ政権下、国務省において「国際障害者の権利に関する特別アドバイザー」をしていた時のことである。世界銀行の例と同様、ジュディが初代だった。2014年12月に国際障害同盟(IDA)が企画した、障害者組織を対象とする障害者権利条約に関する研修を行うためにモンゴルをビクトリア・リーと私が訪問した際である。その広いネットワークで、訪問を聞きつけたジュディから、首都ウランバートルの米国大使館訪問を要請された。大使館員に障害者権利条約のモンゴルでの実施について面談してほしいというのである。当初、固辞したが、東大の件で恩があり、お引受けした。大使館に入る時には非常に厳重なセキュリティチェックがあり、携帯、パソコン等すべて受付で預けさせられた。面会したのは、障害も担当しているという文化担当官で、他国に勤務していた時にジュディと会ったことがあると話していた。そして、モンゴルで盲導犬を使う盲人を最初に雇用したのは同大使館であると語っていた。自分が所属する国務省の中で最大限、常に障害者の権利を推進するために積極的に取り組むジュディの姿の一端を見た気がした。
ジュディが、昨年12月16日に東京において31歳で急逝したブックマン・マークと対談したビデオがある。マークは東京大学東京カレッジのポストドクトラルフェローであり、立命館大学生存学研究所の客員研究員だった他、米国障害学会理事、そして私が委員長を務めている障害学会国際委員会のとても頼りになる委員だった。
このビデオはマークが所属していた東京カレッジのイベント:著者と考える「わたしが人間であるために」ー米国と日本における障がい者の公民権運動(2022年6月24日)の記録である。ジュディそしてマークを振り返るために、再度、この貴重なビデオを見返した。
イベントサイト: https://www.tc.u-tokyo.ac.jp/ai1ec_event/7009/
日本語通訳版(和文字幕)https://www.youtube.com/watch?v=daDJFAjUgK8
英語オリジナル版(英文字幕)https://www.youtube.com/watch?v=oEKhLJSnU0g&t=72s
失ったものの大きさを痛感すると共に、ジュディそしてマークから受け取ったメッセージの偉大さに思いを馳せた。ジュディとマーク、この傑出した二つの魂は今頃、いっそう対話を深めているかもしれない。
このビデオの締めくくりでジュディは、「私たちはグローバルコミュニティの一員であり、お互いから学び続けることができます。学ぶべきことは多くあります」と語っている。この言葉を私はかみしめている。
(敬称略)

障害学の風:アルメニア

ホワニシャン・アストギク(ロシア・アルメニア大学)

 アルメニアは南コーカサスにある小国である。面積は29,800平方キロメートルであり、人口は約300万人、そのうち98%近くはアルメニア人である。主な産業は農業、IT産業、サービス業であり、一人当たりのGDPは4,267米ドルである。世界で一番古いキリスト教国とされており、修道院、教会などの建築物が多い。

写真1:アルメニアの首都エレバン

アルメニアにおける障害者の歴史についてはほとんど知られていない。文学作品には知的障害者、精神障害者などの描写がしばしば見られるが、障害観、障害者福祉・政策の歴史についてまとまった研究が存在しておらず、障害学という分野もない。いうまでもなく、NGO、当事者、アルメニア政府により障害者の雇用、アクセシビリティなどについてさまざまな調査が実施されているが、それはあくまでも諸問題を明らかにするためであり、理論などを取り扱っていない。
アルメニアは1922年〜1991年はソビエト連邦の一部になっていたが、障害者政策もソ連と同じであった。ソビエト時代には障害は就労不能と強く結び付けられており、例外的なものとして視覚障害者連盟、聴覚障害者連盟では障害者が働ける工場などがあったが、特に重度の身体障害者、精神障害者の場合、就労は原則として不可能であった。ちなみに、ソビエト・アルメニアで視覚障害者および聴覚障害者はその他の障害者に比して社会的地位が高かったといえよう。1930年代にそれぞれの障害者連盟が形成され、連盟が障害者のためのアパートを建設したり、障害者が務める文化会館、教育機関、工房、工場などを経営していたため、視覚障害者および聴覚障害者が文化活動に携わっており(劇団、合唱団<注1>など)、雇用も保証されていた<注2>。両連盟は現在でも不動産を所有しており、それを貸し出すことによって費用の一部を賄っている。

写真2:アルメニアの首都エレバンの中心部にあるアルメニア聴覚障害者連盟の文化・スポーツ会館。連盟以外は、アルメニア空手連盟の事務所、旅行会社なども入っている。

また、ソビエト時代に障害は1932年より三つの級に分けられており、第1級は最も重かった<注3>。アルメニアでは独立後もそういった制度が続いていたが、2021年に施行された「障害者の権利に関する法律」では級が廃止されたため、現在は別のシステムに移行中である。

1991年以降の状況について

アルメニアは1991年にソビエト連邦から独立したあと、障害者に関するさまざまな法律が施行されている。1993年4月に「障害者の社会保障に関する法律」が制定され、機会均等化をはかろうとした。法律は障害者の健康、教育、雇用の保証、アクセシビリティ、生活保護などに包括的に触れていたが、問題点も多かった。例えば、「障害者」の定義は「知的または身体的不完全さにより日常生活の活動が制限され、社会支援および保護を必要とする者」となっていた<注4>。
この法律が2021年に廃止され、「障害者の権利に関する法律」<注5>が施行された。この法律は、内容や語彙に関して、アルメニアが2010年に批准した国連の「障害者の権利に関する条約」に強く影響されている。新しい法律では、障害や障害者の定義が変わり、個人の健康状況のみならず、物理的・社会的バリア(障害者に対する態度を含む)の影響も強調されている。ここでは、「障害者」とは「身体的、精神的、知的または感覚的な継続的な障害を有し、かつ環境のバリアの影響により他の者との平等に社会生活への完全かつ効果的な参加が制限されている者」と定義されている。ちなみに、用語も変更し、「障害者」(հաշմանդամ) は「障害のある人」(հաշմանդամություն ունեցող անձ)となっている。
新法律では、社会保障などのみならず、障害者差別、ステレオタイプや偏見の解消、障害者の社会参加、労働についての権利、男女平等、アクセシビリティ、インクルーシブ教育なども重視されており、障害の人権モデルが採用されている。また、ソビエト時代の障害の「級」が廃止され、障害は「中度」「重度」「最重度」となっており、ヘルパー制度も導入されている。

写真3:「障害者の権利に関する法律」の作成に積極的に関わった国会議員のザルヒ・バトヤン(Zaruhi Batoyan)。車椅子利用者であり、2019年1月〜2020年11月に労働・社会問題相として務めていた。写真は本人のFBページより。

上記の法律以外は、アルメニア共和国憲法、労働法、「都市計画に関する法律」などでも障害に関する規定がある。また、1991年以降には数多くの障害者支援団体、NGOが活動している。

法律と現実のギャップ

このように、法律は整備されているが、それは障害者の生活の質の向上につながっておらず、アルメニアの障害者は数多くの問題に直面している。2021年の時点で、アルメニアには195,634人の障害者がおり、そのうち93,201人は女性である。18歳以下の障害者数は9182人、63歳以上の者は85,165人である<注6>。障害者権利団体Unisonの代表アルメン・アラベルジャンによると、障害者の中では失業率が90%以上を超えており、それはアルメニアの平均(16.5%)を大きく上回っている。アルメニアの「雇用に関する法律」の第20条では、障害者の採用枠が設けられており、それは100人以上雇用している国有企業・役所の場合は3%、民間企業の場合は1%である<注7>。また、障害者を雇った場合、助成金制度、減税制度も利用できるが、それは必ずしも障害者雇用につながっていない。アラベルジャンによると、採用枠を増やす必要もあるが、障害者雇用を妨げる最大の理由は、「障害者が働けない」という根強い偏見である<注8>。
もう一つの大きい問題は、物理的なバリアである(そして、それも大きく就労機会を制限しているといえる)。アルメニアの「障害者の人権に関する法律」、「都市計画に関する法律」などはアクセシビリティに触れているが、アルメニアの町は、最近多少改善されたものの、障害者にとって非常に不便である。
まず、ソビエト時代からある建物には、基本的にエレベーターがない。あった場合も、車椅子が入れないほど狭い。そのため、身体障害者にとって外出さえ大きなチャレンジである。私の恩師、日本語教師のK先生(2019年に逝去)の例をあげたい。K先生は癌による障害があり、2016年からは車椅子利用者になっていた。働く意欲があったものの、暮らしていたアパートにも、勤務先の大学の建物にもエレベーターがなかったため、それは不可能であった。外出すら至難の技であり、業者を呼び、車椅子を4階からおろしてもらう必要があったため、特別な機会を除いて、家を出ることはできなかった。
1990年代以降に建設されたアパートでは、エレベーターの設置が義務付けられているが、狭いものが多く、車椅子利用者が必ずしも自由に使えるとは限らない。
また、町の中は階段が多く、スロープが少ない。エレバンの中心部にはある程度作られているが、勾配が大きくて使いにくいものも少なくない。さらに、スロープのすぐ前に車が止まったり、工事がされたりすることなども珍しくないため、整備されている道でも、自由に動けない場合はある。

写真4:エレバン中心部にあるショッピングセンターのスロープ。
写真5:エレバンの中心部。この状態が2週間程度続いていた。

公共交通機関のバリアフリー化も進んでおらず、車椅子利用者が地下鉄、バスなどを基本的に使えない。一部のバスにはスロープかつ車椅子スペースが設けられているが、当事者によると、多くの場合バス運転手がスロープの使い方がわからない、あるいは混み合っているときは協力しないため、整備されているバスでも乗れないことがある。
ここで問題の一部のみをとりあげたが、このようなバリアのためアルメニアの障害者が自由に外出できず、しばしば引きこもり生活を余儀なくされている。物理的なバリアによって、その他のバリアも発生する。例えば、アルメニア政府は不妊治療の経済的な負担を減らすために障害者を含む42歳までの女性の体外受精などの費用を全てまたは一部助成するが<注9>、通院が問題になって諦める障害者女性も少なくない<注10>。
当事者の話によると、問題は経済的なものだけではない。自治体、ビジネスなどがアクセシビリティを重要視しない、不便さを意識しないことが最大のバリアであるそうだ。アルメニアの障害者、またベビーカーを押している親たちが声を上げ始めているが、それが大きい運動に発展しない限り、真のバリアフリー化を望めないと思われる。

写真6:スロープの上に止まっている車。

日本のアルメニアの障害者への支援

最後に、国際協力の例として日本の草の根・人間の安全保障無償資金協力の枠組みによるアルメニアの障害者への支援について紹介したい。「草の根無償」とも言われるこのプログラムは、「人間の安全保障の理念を踏まえ、開発途上国における経済社会開発を目的とし、地域住民に直接裨益する、比較的小規模な事業のために必要な資金を供与するもの」<注11>であり、今までアルメニアでそれにより多数のプロジェクトが実施されている。その中には、障害者に裨益するものもある。その例としては、「障がい児支援のための感覚統合ケアサービス整備計画」がある。この計画が、リハビリ機材を導入し、障害児に感覚統合ケアサービスを提供することによって社会的適応や自立の促進を目指している<注12>。
「草の根無償」だけでなく、いつかアルメニアと日本の障害者の「草の根交流」も可能になることを願っている。

<注>
1.視覚障害者連盟の合唱団は、高齢化しているものの、いまだに存在している。詳しくは次のドキュメンタリーを参照(英語字幕付き)。https://www.youtube.com/watch?v=mAhXHN6j-Z8&t=2s&ab_channel=CIVILNET (2023年2月10日アクセス)。
2. 情報は視覚障害者連盟長ラフィク・ハチャトリアンとの会話に基づく(2021年5月10日)。
3.ソビエト連邦の障害者政策については次の論文が詳しい。Sarah D. Philips. 2009. “” There Are No Invalids in the USSR!”: A Missing Soviet Chapter in the New Disability History”, Disability Studies Quarterly Vol. 29, Issue 3. https://dsq-sds.org/article/view/936/1111 (2023年2月10日アクセス)。
4. 法律の全文はこちら。https://www.arlis.am/documentview.aspx?docid=127 (2023年2月11日アクセス)。
5. 全文はこちら。https://www.arlis.am/documentview.aspx?docID=152960 (2023年2月11日アクセス)。
6. アルメニア国立統計局。https://armstat.am/file/article/sv_01_22a_530.pdf (2023年2月11日アクセス)。
7. https://www.arlis.am/documentview.aspx?docid=87734 (2023年2月12日アクセス)。
8. Արմեն Ալավերդյան, Հաշմանդամություն ունեցող անձանց զբաղվածությունը որպես լիարժեք կյանքի գրավական, 17 մայիսի 2020, Սիվիլնեթ (アルメン・アラベルジャン「完全な生活の保証としての障害者雇用」2020年5月17日、Civilnet)։
9. 障害のある女性の場合、医療上の禁忌がないことが不妊治療および費用の助成の条件となっている。
10. ԿՌԿ Հայաստան, Վերարտադրողականության օժանդակ տեխնոլոգիաների հասանելիությունը կանանց տարբեր խմբերի համար. խոչընդոտները և մարտահրավերները, 2022.
(Women’s Resource Center, Armenia『さまざまな女性のグループの、生殖補助医療へのアクセス:バリアおよびチャレンジ』、2022 ).
11. https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shimin/oda_ngo/kaigai/human_ah/index.html#:~:text= (2023年2月14日アクセス)。
12. https://www.am.emb-japan.go.jp/files/000550691.pdf (2023年2月14日アクセス)。

香港平等機会委員会講演会と香港の今

後藤悠里
(福山市立大学英語特任講師)

2022年9月8日に、香港の人権機関「平等機会委員会」の朱崇文博士(行政総監(営運))から、条例の内容、実施状態などを伺うイベントを開催した。本エッセイの「現行の制度」の節はイベントの内容に基づいている。その他の箇所の主張や誤り等の責任は執筆者にある。

1.はじめに

香港はアクションスターを輩出した地、100万ドルの夜景の観光地として知られる。かつてイギリスの植民地であったが、1997年に返還され中国の一地区となった。「中華人民共和国香港特別行政区」が、現在の香港の正式名称である。
ところで、香港は、障害者差別禁止に関する取り組みを東アジアの中でもいち早く始めている。取り組みが始まった遠因は、1989年に中国で起きた天安門事件にある。デモ隊に対して武力が行使されたことは、香港政庁(イギリスが香港に設置した政府)および香港の人びとに大きな衝撃を与えた。実際のところ、それまで、香港政庁は「自由放任主義」の旗印のもと、香港の人権政策の向上に無関心の態度を取ってきた。しかし、事件後、イギリス植民地政府は中国返還後の人権の後退を懸念し、人権保障の取り組みを開始することとなった。
1991年には、「香港権利章典条例(Bill of Rights Ordinance)」が制定された。なお、「条例」は、たとえば日本における、法律と同等のものと考えてよい。本条例は、公的機関による差別を禁止していたが、私的機関については対象外であった。そこで、「障害者差別禁止条例(Disability Discrimination Ordinance)」が1995年に制定、1996年から施行された。中国返還を1年後に控えた年のことであった。同様の法律が韓国では2007年に、日本では2013年に制定されたことを考えあわせれば、前述の通り、香港の取り組みは早かったこととなる。
その後、中国は、2008年に障害者権利条約を批准した。中国はすでに2回(2012年、2022年)、国連の審査を経験している。先行する香港から、私たちが学ぶことがあるだろう。そこで、以下、障害者に関する現行の制度として、平等機会委員会および障害者差別禁止条例、判例について、紹介されたものの一部をまとめる(適宜、平等機会委員会のウェブサイト、判決文も参照した)。その上で、執筆者の見解も述べてみたい。

2.現行の制度
1)香港・平等機会委員会(Equal Opportunities Commission)について
香港・平等機会委員会は、政府から独立した法定機関であり、香港における差別禁止条例の実施を担っている。ここでいう差別禁止条例とは、性差別禁止条例、障害者差別禁止条例、家庭内の地位に関する差別禁止条例、人種差別禁止条例を指している。
講演者によると、平等機会委員会の業務は、リアクティブ(事後対応的)とプロアクティブ(事前対応的)な介入に分けることができる。リアクティブな介入としては、調停や法的支援が挙げられる。たとえば、平等機会委員会は、苦情申し立てがあった場合に調査をし、当事者間の調停を行う。調停がうまくいかなかった場合には、法的支援を行うこともある。プロアクティブな介入として、たとえば、政策についての研究および啓発活動がある。

2)障害者差別禁止条例について
定義について 障害者差別禁止条例の定義は、インペアメントに依拠する方式である。たとえば、「(a)身体的または精神的機能の全体または一部の喪失」「(b)身体部分の全体または一部の喪失」というような形である。また、「過去に存在していた障害」「現在の障害」「未来に生じうる障害」「障害とみなされる状態」を含んでいる。この定義は「オーストラリアモデル」に基づくとされており、実際のところ、オーストラリア障害者差別禁止法の障害の定義とほぼ同一の文言となっている。

対象者について
法律の対象は、上記の障害を持つ者だけではない。障害者の周囲にいる人たちも対象となり得る。たとえば、障害者の配偶者、親戚、ケアをする人、仕事などでの関係を持つ人たち、障害者と「真に家庭的な基礎を持って一緒に暮らしている人(a person living together on a genuine domestic basis)」も含まれる。「真に家庭的な基礎を持っている人」とは、結婚はしていないが、カップルとして同居している人のことである。一例として、同性のパートナーが挙げられる。条例の対象者の幅の広さは特筆に値する。

対象領域について
障害者差別禁止条例においては、条例の対象領域が規定されている。たとえば、雇用主と従業員といった雇用関係、財やサービスの提供者と被提供者との関係、教職員と学生との関係などである。障害者差別禁止条例に関しては、特に雇用関係の申し立てが多いという。

対象となる行為について
差別の対象となる行為としては、差別、ハラスメント、中傷という3つのタイプがある。これらに関して、平等機会委員会のウェブサイト(Equal Opportunities Commission 2023a)による説明を見てみよう。第1のタイプである差別の中には、直接差別と間接差別がある。直接差別は、「障害を理由として、同じ状況下で、障害のある人が障害のない人と比較して、より不利に扱われる時に生じる」。一方、「間接差別とは、すべての人に適用される条件や要件が、実際には障害のある人により悪い影響を与え、不利益となり、そのような条件や要件が正当化されない時に生じる」。そして、第2のタイプであるハラスメントとは、「その人が傷つけられた、侮辱された、脅迫されたと感じることが合理的に予想できる、障害を理由とした歓迎されない行為」、第3のタイプである中傷とは、「公的な場において、障害者に対して憎悪を向けたり、深刻な侮蔑や深刻な嘲笑を行ったりする行為」とされている。

3)判例について
講演では、判例についていくつか紹介していただいた。その中で、Siu Kai Yuen v Maria Collegeのケースを取り上げる。本判例は、直接差別の事例でもあるが、講演においては間接差別の事例として紹介された。平等機会委員会のウェブサイトには、本件の簡潔な紹介がある(Equal Opportunities Commission 2023b)。
原告であるSui氏は教員として14年間働いた。がんの手術を受けた後、病気休暇を取得し、3か月後に教壇に復帰をする予定であった。しかし、復帰予定の1ヶ月前に、彼は解雇された。
原告側弁護人は、がんを、定義の「(e)身体の一部の機能不全、奇形または醜状のこと」に当てはまるとして障害であると主張し、被告側弁護人も異議を唱えなかった(Siu Kai Yuen v. Maria College 2005: para. 2 & 22)。直接差別についての条項(第6条(a))では、「障害のない者を扱う、または扱うだろう場合と比較して、障害を理由として、人を不利に扱うこと」とある。原告側が2名の仮想の比較対象者(産休を取った人、陪審員となったため欠勤した人)を示したところ、学校側は、この2名を解雇することはないと述べた。ここから、裁判所は、直接差別が立証されたとした(Siu Kai Yuen v. Maria College 2005: para. 50)。
一方で、間接差別も認められた。学校側は、理由にかかわらず自分の授業の10%以上を欠勤することは契約に違反するという規定に基づき、Sui氏を解雇した(Siu Kai Yuen v. Maria College 2005: para. 41)。この規則は、Sui氏のみならず、すべての教員に適応されるものである。したがって、障害者に対する差別的な規則ではないようにみえる。しかし、裁判所はこの規則を正当化できないとした。まず、病人は出勤できないのは明らかであるため、出勤を義務付けることは間接差別の要素となり得る(Siu Kai Yuen v. Maria College 2005: para. 58)。次に、学校側は生徒の利益を保護し、教育を継続させるためにこの規則が必要であると主張しているが、裁判所はその目的が正当であったとしても、解雇という手段を取ることは、障害の結果休まざるを得なかった人にとっては不当であると述べた(Siu Kai Yuen v. Maria College 2005: para. 59)。このようにして、本規則は間接差別だと認められた。
執筆者は、差別についてこれまで学んできた。大学における障害学生支援にも取り組んできた。それでも、取り扱いの違いがある直接差別に比べ、間接差別については、現実に落とし込んで考えることが難しいように感じている。差別をしないようと、心にとどめていても、間接差別を行っていることがあるかもしれない。判例を学ぶことは、間接差別への理解を深めることができるという点で、また、実践という点で、有益であるだろう。

3.香港の今:まとめにかえて
これまで日本においては、欧米諸国や韓国の事例が紹介されてきた。しかし、香港の事例からも学ぶことは多い。法律の対象者の広さは、日本においても検討されるべきことかもしれない。また、判例を学ぶことによって、差別への理解を深めることができる。
もう一点、執筆者の見解を付け加えたい。香港の事例から、私たちが学ぶべきことがある。それは、民主主義や言論の自由といった、日本に住む者にとっては当然のものとなっている理念の重要性である。
かつて執筆者は、香港の現状について、以下のように述べたことがある。

〔香港において〕デモや集会ではない形での、正式に意見を通す仕組みや対話ができる場があってしかるべきである。それがないために困難を抱えるのは障害者である。香港の障害者団体も含めて、香港社会は今後、民主主義の実現に向けて取り組むことが必要であろう(後藤 2018: 455)。

 この文章を書いた当時、執筆者は、香港の情勢がこれほど悪化するとは考えていなかった。民主主義の確立は徐々に行われていくのではないか、その可能性は高いのではないかと、楽観的に考えていた。なぜならば、香港の憲法にあたる法律「中華人民共和国香港特別行政区基本法」)に、「従来の資本主義制度と生活様式を今後50年変更しない」という文言があるためである。したがって、民主主義が大幅に後退させられることはないだろうと考えていたのであった。
しかし、近年中国は香港への介入を徐々に強め、2020年には「香港国家安全維持法」を制定した。この法律においては、国家の分裂および政権転覆、テロ活動、外国勢力との結託が犯罪行為とされている。この法律の下で、民主化運動の活動家が逮捕されるなど、香港の言論の自由は奪われつつある。2021年には選挙制度が見直され、すべての立候補者は事前審査を受けることになった。その結果、中国政府に批判的な勢力は、選挙に出馬することすらできなくなった。こうした形で、現在、香港における民主主義は徐々に力を失っている。
障害者の権利を保障するためには、言論の自由が不可欠である。障害者運動の依拠するスローガン「私たち抜きで私たちのことを決めないで」は、障害当事者の意見が重視されることを意味している。意見が尊重されるためには、まずは意見を自由に表明することができる環境が整っていなければならない。したがって、言論の自由が保障される必要がある。言論の自由が奪われている状態においては、当事者としての権利を十分に行使することができない。香港の民主主義のように、障害者の権利保障も後退していくことが、万が一にも起こり得る。
実際のところ、これまでは、香港においては言論の自由が保障されていた。執筆者が実施したインタビューにおいて、言論の自由に言及されたことがあったが、「香港の言論の自由が保障されている」とインタビュー相手は共通して述べていた。しかし、国家安全維持法のもとでは、言論の自由という、香港において確立されていた権利が、民主主義と同様に奪われているのである。
香港を対象に研究を進めている者として、執筆者はこの状況に危惧を抱いている。日本にいる私に何ができるのか。一つは、日本にいる私が自明視している言論の自由、民主主義を日々守っていくという思いを日々新たにし、その姿勢を能動的に保ち続けることだろう。

参考文献
Equal Opportunities Commission, 2023a, “FAQ-The Disability Discrimination Ordinance and I” (Retrieved January 6, 2023, https://www.eoc.org.hk/en/discrimination-laws/disability-discrimination/faq/the-disability-discrimination-ordinance-and-i).
Equal Opportunities Commission, 2023b, “Disability Discrimination”,
(Retrieved January 6, 2023, https://www.eoc.org.hk/en/legal-services/significant-court-cases/hong-kong/disability-discrimination).
後藤悠里,2018,「香港」長瀬修・川島聡編著『障害者権利条約の実施――批准後の日本の課題』信山社, 443-458.
Siu Kai Yuen v. Maria College, 2005, DCEO 9/2004, Hong Kong District Court (Retrieved February 10, 2023, https://legalref.judiciary.hk/lrs/common/search/search_result_detail_frame.jsp?DIS=44943&QS=%24%28Siu%2CKai%2CYuen%2Cv.%2CMaria%2CCollege%29&TP=JU).

謝辞
本講演をしてくださった香港平等機会委員会の朱崇文博士にお礼申し上げます。本原稿に対し、貴重なコメントをくださった高雅郁氏、田中恵美子氏、土屋葉氏に感謝します。本講演会は、障害学会の後援を受けて行われました。本講演会は、科学研究費補助金基盤研究(c)「障害女性の生きづらさの実態と解消方策の検討―制度の実効性に関する東アジア比較―」(19K02047)の助成を受けています。